司祭の言葉 2/18

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

灰の水曜日(2026年2月18日)の黙想

マタイ6:1-6、16-18

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆

さんの額に十字架のしるしを致します(あるいは、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々が主イエスを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/15

年間第6主日 マタイ5:17-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音で、主イエスは弟子たちに、「あなた方の義が、(律法を厳格に守ることに努めた)律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなた方は決して天の国(神の国)に入ることはできない」と、仰せになっておられます。

厳しいおことばです。しかし、主イエスの弟子たちは、主のこのおことばに深く心打たれたに違いないと思います。

主イエスの弟子たち。ペトロを中心に彼らは主の十字架とご復活の後には聖霊を受けて主と主の教会のために重要な働きをすることになります。しかし彼らが主に呼ばれた時はどうだったでしょうか。彼らの誰一人として、この世的にはとくに知恵や力に優れていたわけではなかったと思います。彼らはガリラヤ湖の漁師たちであり、あるいは罪人と呼ばれた取税人でした。しかも、今日の福音の主のおことばが彼らに語られたのは、その彼らが主に呼ばれてまだ間もない頃のことでした。

そのような彼らに、「神の子」として、「神の国と神の義」に生きること、つまり神の子に相応しく義しく生き、神の子に相応しく神の国に招き入れられることを、主イエスのように真剣に願い、熱く語りかけてくれた人が、かつてあったでしょうか。

日々の貧しい生活に追われる中で、彼ら自身、自分たちが「神の子」であること、神の子として神の国と神の義を望み、かつ願ってよいのだということなど、とうの昔に忘れてしまっていたのではなかったでしょうか。主イエスにお会いするまでは。

彼らは、主イエスにお会いして初めて、彼ら以上に真剣に彼らのことを思い、願い、祈ってくださっておられる方があることを知らされたに違いありません。同時に、主との出会いを通し、彼ら自身、実は彼らが思っているよりもはるかに貴いもの、つまり「彼らは神の子である」ことを、感激を以て確信させられたに違いありません。

わたしたちは、自分のことは自分自身が一番よく知っているように思っています。しかし、本当にそうでしょうか。本当にわたしたちは、自分のことを一番よく知っているのでしょうか。実は、わたしたちのことを一番よくご存じであられるのは、わたしたちではなく、わたしたちの主イエス・キリストではないでしょうか。

次の主日から四旬節を迎えます。四旬節は、「悔い改めて、福音を信じなさい」との主イエスのみことばを、日々心に刻みながら歩む時です。しかし、「悔い改める」とはいかなることなのか。ここで、日本語で「悔い改める」と訳されている聖書の元の言葉は、「(主と)ともに思うこと」、つまり「(主と)心と心を重ね合わせる」という意味です。つまり、「主と心を重ねさせていただく」。それが「悔い改める」ということです。そうであれば、「悔い改める」とは、わたしたちを大切に思ってくださる主のおこころを知り、その主のおこころをわたしたちが感謝していただくことです。

わたしたちは、自分のことを大事だと思ってはいます。しかし、実際にはその大切な自分のために何を求めたらよいのか、あるいはその大切な自分が一体何を望み、何を願ってよいのかさえ、自分自身ではよく分かっていないのではないでしょうか。

主イエスは、わたしたちが「神の子」であり、主ご自身の「兄弟」であることに心を向けさせてくださいます。さらにミサでは、主はわたしたちに、ご自身のからだと血を分け与え、文字通り、主とわたしたちがからだと血を分けた兄弟であることを、わたしたちの身の事実としてくださいます。使徒パウロが告げます。「あなたがたの命は、(兄弟である)キリストと共に神の内に隠されている」と(コロサイ3:3)。

主イエスは「山上の説教」の結びに、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と、仰せになります。これは、主の確実なお約束です。求める者に与え、探す者に示し、門をたたく者に門を開いてくださるのは、主イエスご自身だからです。

わたしたちは何を探し求めるのか。「神の子」であるわたしたちが探し求めるのは、「神の義」と「神の国」に生きることです。そのわたしたちに、主イエスは確実に「神の国」の門を開いてくださいます。主は今日の福音の冒頭に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と仰せでした。主は神の約束の成就として来てくださいました。

主イエスは、わたしたちのために、わたしたちの内に、「律法や預言者」・「神のみことば」を完成するために来てくださいました。みことばと聖霊によって、わたしたちを「神の子」としてくださるために。四旬節まで、「山上の説教」に導かれて、主のわたしたちへの願いと祈りに、主の愛に、そして聖霊においてわたしたちに働かれる主のおことばの権威と力にわたしたち自身を託させていただきたいと祈ります。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/8

年間第5主日 マタイ5:13-16

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「あなたがたは地の塩である。・・あなたがたは世の光である。」

先の主日から四旬節前までの主日のミサで、マタイの伝える主イエスの「山上の説教」からお聞きします。「主の山上の説教」。しかし、ここで主がなさるのは、たんに教えを説くのでは無く、みことばすなわち主ご自身をくださることです。

ところで、「山」に上ってわたしたちにみことばをくださる主イエスは、旧約の偉大な預言者モーセを想い起こさせます。モーセも、出エジプトの後、「山」に上って神からみことばを受けました。「(モーセの)十戒」と呼ばれてきました。ただし、『聖書』は、「神はこれらすべてのことばを告げられた」(出エジプト20:1)と、それを「十の戒め(教え)」」とは言わず、「神のすべてのことば」としています。「山」に上ったモーセは、神からすべてのみことば」を受け、それを、人々に伝えたのでした。

今、主イエスは、かつてのモーセのように「山」に上られます。しかし、主はモーセと同じではありません。主は、ご自身でお語りになられます。ご自身の権威と力において。主は神の「みことば」そのもの、「すべてのみことば」そのものだからです。

神のみことばそのものであられる主イエスは、たんに「教え(戒め)」を説くのでも、ユダヤの律法の教師のように神のみことばについて教えるのでもありません。主は、神のみことばをわたしたちにくださるのです。それは、神のみことばそのものであるご自身をわたしたちにくださることです。それが主の「山上の説教」です。

ただ、主イエスの時代のユダヤでも、律法学者たちのように、主のみことばを、単に「教え(戒め)」としか聞くことができず、それを自分たちの知恵や価値観で判断し、その「教え」を受け入れることはできないとした人が大勢いたことも事実です。

しかし、福音はその彼らのことを、単純に主イエスの「教え」を拒んだ、とは言いません。福音は、彼らは「神のみことば」である「主を十字架につけた」と言います。主のみことばをいただかないことは、たんに神の「教え」を聞かないというのではなく、「神」を「神」としていただかないということだからです。なぜなら、主のみことばは、たんなる「教え」ではなく、神ご自身だからです。

「受肉された神のみことば」であられる主イエス・キリストのみことばは、わたしたちに対して、「天地の創造主であり、全能の父である神ご自身」の「権威と力」をもって、「聖霊」によって確実に働かれます。

旧約聖書の冒頭に伝えられていることを、思い出してください。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」創造主である神において語ることと創造すること、すなわち神のみことばと神のみ業は一つです。そして、主イエスは、「万物を創造される神のみことば」ご自身です。使徒ヨハネが、その福音に、「初めにことば(みことばなる主)があった。ことばは神であった。万物はことばによって成った」と証言する通りです。主の「山上の説教」は、「教え」ではなく、「主のみことば」・「聖霊において働かれる神のみことばである主ご自身」です。

主イエスのみことばは、決して、わたしたち被造物の思いや知恵によって左右されません。主のみことばは、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と言われるように、それ自体、無から有を創造する神のみことばです。主のみことばは、ご自身のみ旨に従ってすべてを新たに創造される、神ご自身です。

事実、今日の福音で、主イエスは、次のように仰せでした。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」

ここで、主なる神・キリストはわたしたちに、「あなたがたはわたしの戒めを守って地の塩、世の光になるように努めてほしい」と教えておられるわけではありません。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である」と仰せです。これが主イエスのみことばです。そして主のみことばは、主がお語りになられた通りに、聖霊によって聞くわたしたちを「地の塩・世の光」として新しく創造してくださいます。

四旬節前まで、主イエスの「山上の説教」、すなわち「主のみことば」を、ご一緒にお聞きして参ります。天地万物を創造する主のみことばによって、わたしたちは新しく創造され、造り変えられて行くのです。これが、わたしたちカトリックの信仰です。

「おことば通りにこの身になりますように。」マリアさまのように、神のみことばである主イエスを、聖霊とともに、ご聖体においていただく。それがミサです。それが「主からみことばをいただく」ということです。主のみことばは聖霊において働きわたしたちの内に実を結んでくださいます。それが、救われるということです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2/2

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た」

「主の奉献」の祭日の黙想 2026年2月2日 ルカ2:22-40

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た。」
エルサレムの神殿で、聖母マリアさまからゆるされて「幼子キリストを腕に抱き、神をたたえて言った」、老シメオンの言葉です。

ご降誕から40日後、幼子キリストは、マリアさまとヨセフさまによってエルサレムの神殿で、父なる神に捧げられました。彼らはそこで、老シメオンに会いました。シメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルが救われるのを待ち望んで」いました。また、「聖霊が彼の上にあり、主が遣わすメシア(キリスト)に会うまではけっして死なないとの聖霊のお告げを受けていた」と、ルカによる福音は伝えています。


目に見えない神の約束と聖霊の導きに一切を委ねて、従順に、かつ忍耐強く、生涯、救い主キリストを待ち望んできた老シメオン。 彼の目が閉じられる前に、約束通り、神は彼の目に神ご自身を見させてくださいました。それが、幼子キリストです。

「主よ、今こそ、あなたはおことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で、あなたの救いを見たからです。」

   
福音記者聖ヨハネが、後に彼の手紙に書き留めたように(1ヨハネ1:1,2)、シメオンにとって幼子キリストは、まさに「耳で聞き、目で見、よく見て、手で触れる」 ことさえゆるされた「いのちのことば」。彼にとって主イエスこそ、神ご自身から与えられた疑いようのない救いの事実。シメオンの神への賛美は続きます。

「この救いこそ、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らすための光、あなたの民イスラエルの栄光です。」

神の救い、主イエス・キリスト。御子キリストこそ、父なる神が万民のために、すなわちわたしたち一人ひとりのために「備えてくださった救い」です。驚くべき事に、わたしたちがわたしたち自身を父なる神にお捧げさせていただく前に、父なる神が、御子キリストにおいて、ご自身をわたしたちにお与えくださいました。それが、ご降誕の幼子イエス・キリストです。


この同じ幼子キリストが、ご降誕から40日後のこの日、エルサレムの神殿で、この度は、マリアさまとヨセフさまの手で、「主の律法に従って」父なる神に奉献された、と福音は伝えていました。しかし、それはなぜでしょうか。

「主の律法」。主なる神は、ご自身の民イスラエルを奴隷の家エジプトから導き出される、その前夜に、「初めて生まれる男子はみな、主のために聖別される(捧げられる)」と、「初子の奉献」をお命じになりました。それによって、神が引き続いて成就される神と神の民の過越(すぎこし)、すなわち「主が力強い御手をもって神の民をエジプトの地から導き出された」ことが、神の民によって永遠に記念されるためです。

それにしてもなぜ、「神と神の民の過越」が「初子の奉献」(出エジプト13:1,2)によって永遠に記念されることを、神はわたしたちにお求めになられるのでしょうか。

それは、神と神の民の過越の奇跡の背後には、ご自身のいのちそのものであられる、初子にして御独り子なる主イエスをわたしたちにお捧げくださるという、わたしたちのための父なる神ご自身の誠に尊い犠牲奉献がある事を、わたしたちに忘れさせないためではないでしょうか。後の、神の御子キリストご自身の十字架上の犠牲奉献が、すでにここに明確に指し示されているように思われてなりません。

そうであれば、父なる神の「初子キリストの奉献」の記念を通して、主なる神がミサにおいてわたしたちに成就してくださることも明らかです。それは、主イエスにおけるわたしたち一人ひとりの出エジプト、すなわち「主とわたしたちの過越」です。

わたしたちは、神から受けた主イエスを、神にお捧げします。ご降誕日に父なる神からいただいた父なる神の「初子にして独り子なるキリスト」を、わたしたちの感謝(ユーカリスト)として、父なる神にお捧げさせていただきます。それがミサです。

「主イエスのご奉献」の恵み。それは、父なる神により、わたしたち一人ひとりが、御子キリストの奉献、すなわち、ご受難と死を通してご復活の栄光に過ぎ越して行かれた主イエスご自身の過越に固く結びあわされることです。この恵みの奇跡を、わたしたちはミサの度に、マリアさまとヨセフさまとともに記念し、祝います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/1

年間第4主日 マタイ5:1-12a

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、マタイが伝える主イエスの「山上の説教(垂訓)」冒頭の主の祝福のおことばです。ここで、主が、「幸いである」との祝福を八重に繰り返してくださっておられることから、「真福八端」と呼ばれてきました。「端」とは「ことば」です。

カトリック教会おいては、今日の福音・「真福八端」は、古来、11月1日の「諸聖人の祭日」に朗読されてきました。11世紀の初めから、列聖された聖人方を11月1日、他の帰天されたすべての方々を11月2日に分けて記念する習慣になりましたが、古くは、11月1日を「神に仕えたすべての聖人方の日」とし、列聖された方々のみならず、帰天されたすべての方々、わたしたちの信仰の先輩方すべてを記念していました。

ここで、「神に仕えたすべての聖人方」の「聖」とは、如何なることなのでしょうか。聖書では、「聖」である方は、神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、生まれながらに聖い人と言うよりも、主の「みことば」と「聖霊」を受け、神によって「聖くされた人」のことです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。・・・」

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主の他に頼る方が誰もいない者たち、わたしたち自身です。「天国・神の国」を望んで、わたしたちは主以外にいったい誰を頼ることができるでしょうか。そのわたしたちに、「神の国の主キリスト」は「天国」を約束してくださいます。それが主の祝福です。

主イエスのこれらのおことばは、「真福八端」と呼ばれてきたと申しました。わたしたちに対しての八つの詩句からなる主の「祝福のみことば」です。ご自身「聖」にして、わたしたちを「聖とする」ことがおできになる神からの祝福です。わたしたちが「聖とされ、天国を約束されること」。それが、主から祝福されるということです。

わたしたちが主イエスによって「聖とされ、天国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主キリストのもの(キリスト者)とされる」ことです。それを使徒聖ヨハネは、「御子キリストに似た者となる」(1ヨハネ3:2)と教えていました。わたしたちが「聖とされ、天国を約束される」、主から祝福されるとは「御子に似た者とされる」こと。主に祝福された「聖人方」こそ、「主に似た者とされた方々」です。

その祝福を主イエスは如何にしてわたしたちにお与えくださるのでしょうか。それは、「祝福のみことば」と祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によってです。「聖霊」は、主の「みことば」と共に働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいます。「みことばとともに働かれる聖霊」こそ、洗礼にでわたしたちを新たに生まれさせ、ミサで、わたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体・主ご自身の御からだと御血・主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身です。主はご聖体においてご自身をお与えくださることによって、聖霊によってわたしたちを「聖」とし、「主に似た者」としてくださいます。それが主の祝福です。主こそ、祝福その方だからです。わたしたちの信仰の先輩方・神に仕えたすべての聖人方は、主ご自身を祝福として受け、「主の似姿に変えられた」方々です。

今、わたしたちもこのミサで、天に帰られた彼らがかつてそう祈り願ったように、「主イエスよ、わたしたちにみことばをください」と、主に願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」と共に「聖霊」を、主ご自身をくださいます。主は小さなわたしたちにも、ご聖体において、主ご自身を祝福としてお与えくださいます「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、天に帰られた信仰の諸先輩方に比してはるかに劣る者でしょう。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにもお与えくださる主ご自身は、主が神に仕えたすべての聖人方にお与えになられた主と全く同じ主ご自身です。主は今も、いつも、代々に、一人なる同じ主であられるからです。わたしたちにさえご自身をお与えくださる主を、その恵み故に、わたしたちは心から畏れます

天に帰られたすべての聖人方は、今や天で主イエスとともに、地上でミサが先取りしていた「神の国の食卓」に着き、主のみ前に一心に主を褒め、主を称えていると信じられています。ご自身を祝福としてわたしたちにお与えくださった主への彼らの愛と感謝は、地上での制約されたわたしたちの思いを遥かに超えるでありましょう。天に帰られたすべての聖人方は、このことをよく知っておられると思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 1/25

年間第3主日 マタイ4:12-23

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

マタイによる福音は、主イエスの福音宣教を、今日の第一朗読でお聞き致しましたように、神が旧約の「預言者イザヤ(イザヤ9:1)を通していわれていたことが、実現するためであった」と告げていました。

主イエスが、わたしたちの「光」として来てくださった。これが、福音です。降誕日にお聞きしたヨハネによる福音も、「光は暗闇の中で輝いている。そして、暗闇は光に(死はいのちに)勝たなかった」と、力強く主を証ししていました。

確かに、闇がいかに深く、重くとも、また闇がどれほど長く続いていたとしても、一筋の「光が射し込め」ば、そこに闇は終わります。しかも、預言者イザヤは、実は救い主キリストは一筋の光ではなく、「大きな光」として来られる。つまり、闇の支配を「完全に」終わらせる方、として来てくださると告げていました。

マタイの言う「暗闇に住む者」・「死の陰に住む者」とは、他人ごとではなくわたしたちのことではないでしょうか。しかし、マタイが引用した旧約の預言者イザヤにとって、「暗闇あるいは死の陰に住む者」とは、直接には一体誰だったのでしょうか。

旧約のイザヤ書の1章から39章までに記録された、預言者イザヤを通して語られた神のことばを直接聞いたのは、紀元前8世紀の半ばから8世紀末にかけての神の民イスラエルでした。その時代、すでに南北に分裂していた神の民は、それぞれ別の異邦の民と結びついて互いに争い、結果的に当時の大国アッシリアによって神の都エルサレムは蹂躙されることになります。このような、混乱と国力の衰弱は、紀元前722年の北王国の滅亡、さらには、イザヤ書の40章以下に記録される、紀元前6世紀の南ユダ王国のバビロン捕囚に帰結します。

このような神の民イスラエルが、預言者によって、「暗闇に住む者」あるいは「死の陰に住む者」と呼ばれていたのです。彼らの「暗闇あるいは死の陰」とは、彼らが神のみことばに聞くことを拒んだ罪、すなわち不信仰によって、自ら招いた結果でした。同時に、その罪の結果の解決は、すでに異邦人をも巻き込んで、最早、神の民である彼ら自身の力を遥かに超えたものとなっていました。

実は、これこそ、罪の恐ろしい姿かもしれません。罪とは、自ら招いたものでありながら、自らでは解決不能な結果を招くからです。丁度、暗闇に迷う者が、もがきさ迷えばさ迷うほどその道を見失うように。しかし、暗闇でいかにもがいても、彼らが自分で「光」をもたらすことは出来ません。その彼らに「光」が、しかも驚くべき事に、彼らが背いた神から与えられる、とイザヤは告げます。

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

これは、罪なる彼らにとって当然のことではあり得ません。そればかりか、彼らの罪によって深く傷つけられた神ご自身にも大きな犠牲を強いることです。

マタイによる福音は、この預言者イザヤによって語られた神のみことばを受けて、主イエスこそ、罪なるわたしたちに神がお与えくださる「光」であると告げます。わたしたちの罪の帰結である「闇」と「死の陰」を十字架において一身に負う、十字架を通して復活の「光」をもたらしてくださる主こそ、罪なるわたしたちの「闇」を終わらせ、わたしたちを「死の陰」から救いだす、唯一の「光」である、と。

預言者イザヤのこのことばの引用によって、主イエスの福音宣教を語り始めたマタイによる福音が、その主の宣教のご生涯を、主ご自身の十字架の死と復活の証言で結んでいるのは、この故です。

今日のマタイによる福音は、預言者イザヤのことばに続いて、主イエスご自身の福音宣教の始めのことばを伝えていました。

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

「悔い改めよ。」それは、わたしたちの全身全霊で主イエスに向き直ることです。それは「暗闇に住む民が大きな光を見」「死の陰の地に住む者に光が射し込」むことの証し人とされるためです。「神の国」が来た。十字架とご復活において、闇を完全に終わらせる「光」なる主イエスのご支配が、今、始められた。それが福音です。

「光は暗闇の中で輝いている。そして、暗闇は光に勝たなかった。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/18

年間第2主日 ヨハネ1:29-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先に、わたしたちは「主の洗礼」を記念いたしました。その際お聞きしたマタイによる福音は、主イエスが民衆とともに洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられたこと、そしてその時、天が開け、人々とともにある主に聖霊が降り、天からのみ声が聞こえたこと等、起こった事実を中心に伝えていました。

同じ時のことを、今日の福音記者ヨハネは、その時の洗礼者ヨハネの主イエスに対する信仰とキリスト告白に焦点を合わせて、語り伝えてくれています。

今日の福音は、「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て」、と語り始めていました。「その翌日」とは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で民衆に洗礼を授けていた日の翌日であり、ヨハネのもとに主イエスが来られた日のことです。洗礼者ヨハネは、自分に近づいて来られる主を見て、人々に告げました。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

洗礼者ヨハネの生涯は、救い主キリストへの待望に尽きていたと思います。生涯かけて待ち望んできた主イエスを、畏れと喜びに震える指で人々に示しつつ、今や彼の待望の日々を満たしてくださった神への溢れる感謝を胸に、ヨハネは続けます。

「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けるために来た。」

ただし、洗礼者ヨハネには意外な言葉がありました。「わたしはこの方(つまり主イエス)を知らなかった」。聖母マリアさまの親族エリサベツの子である洗礼者ヨハネこそ、幼い時から主イエスの一番近くで生活した人の一人ではなかったでしょうか。しかしこの時、神は、ヨハネの目に、もはや惑うかたなく主イエスをキリストとお示しになられたのだと思います。同時にその時、ヨハネは自分が何者か、つまり、自分に神から与えられた使命をもはっきりと知らされたのだと思います。「この方(すなわち主イエス)がイスラエルに現れるために、わたしは水で洗礼を授けるために来た。」

「そして」と、ヨハネはさらに言葉を続けます。「わたしは、が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授けるのである』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

洗礼者ヨハネは、ここに主イエスを、畏れをもって、しかし喜びと確信に満ちて「神の子キリスト」と証言します。「この方こそ神の子(すなわちキリスト)である。」実は、彼はすでに父なる神から、が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授けるのである」と聞かされていました。そしてこの時、ヨハネは、が降って、キリストにとどまる」のを、彼の目で確かに見たのです。従って、ヨハネにとって神の次のおことばも、すでに疑い得ない事実です。

(霊に満たされた)主イエスはわたしたちに聖霊によって洗礼を授けてくださる。」

この重要な彼の証しの前と後に、今日の福音の冒頭を含めて、次の「キリスト告白」の言葉を、ヨハネが繰り返していることを見逃すことはできません。すなわち、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

洗礼者ヨハネのこの告白は、旧約の預言者イザヤによって預言されていた「苦難の僕」である救い主キリストを、「わたしたちの罪をすべて負わされ、その罪の犠牲として屠られる子羊」(イザヤ53:6-8)に喩えた神のみことばと、響き合っています。

主イエスは「聖霊によってわたしたちに洗礼を授けてくださる。」主は神の聖い霊によって、罪に汚れたわたしたちを神に受け入れられるものへと聖別してくださいます。しかし、それは主イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であり、従って、主ご自身には十字架の犠牲を求められることを、洗礼者ヨハネは、すでに知っています。

わたしたち罪人が「聖霊を受けて聖くされる」ことが如何にして赦されるのか。知恵によるのか。良い業によるのか。そうではありません。主イエスのいのちをいただくことによってです。主ご自身であるご聖体において、主の活けるいのちであり、わたしたちの罪を聖めることがおできになる聖霊を受けさせていただくことによってです。わたしたちには、十字架に死に、復活された主イエス・キリストのご聖体による他に、聖霊を受けさせていただく確実な道はありません。ミサが、その道です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/11

主の洗礼 マタイ3:13-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日、わたしたちは「主の公現」を祝いました。その日、クリスマスにユダヤの一隅にお生まれになられた主イエスが、東方の博士に象徴される異邦人を含む全世界の民に、「福音」として「公(おおやけ)」にご自身を現わされました。

「主の公現」に続く今日は、「主の洗礼」を記念いたします。主イエスは、ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立って、民衆とともに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。しかしなぜ、民衆とともになのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスがヨルダン川のヨハネのもとに来て、民衆とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。この洗礼者ヨハネに、「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」

御子キリストが、ここで民衆とともに洗礼を受けられるのが、「正しい」と言われるのは、それが神のみ旨であり、それを通して民衆に対する父なる神のみ業が行われるということです。事実、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」、次の「三つのこと」が、神によってなされたと、今日の福音は伝えていました。

第一に、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、民衆とともに洗礼をお受けになられた主イエスにおいて、「天が開かれた。」民衆に対して。驚くべきことです。罪人、すなわち民衆の大多数に、「天」は閉ざされていたからです。詩編には、「死」を恐れる民衆の呻きのような祈りを多く納めています。彼らが恐れたのは、罪人のままで死ぬことにより、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」ことです。つまり救いの希望が永遠に潰えることです。

例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」

しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、彼らに「天が開かれた」のです。ただ一度にして、かつ永遠に。同時に、「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。天は「聖霊のご聖櫃」だからです。

事実、その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で「キリストの上に降った。」実は、天の父なる神はこの時、民衆とともにある御子キリストに、神のいのち・神ご自身である「わたしの霊を彼(キリスト)の上に置」かれたのです。

なぜなら、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」この神のみことばは、かつて預言者イザヤ(42:1)を通して語られたご自身の次のことばです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」その際、神はご自身のことばを次のように結んでいたのです。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」

父なる神が、「ご自身の霊を御子キリストの上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊である「聖霊」が、民衆と共にある「御子イエス・キリスト」の内にあり、主イエスを通して目に見える形で民衆に生きて働かれるのです。「主イエスの福音宣教」はその始めから、民衆、つまりわたしたちに対する「主イエスにおける父なる神のいのちである聖霊の業」「父・子・聖霊の三位一体の神の業」に他なりません。

主イエスの福音宣教は、天地の創造主、全能の父なる神が、御子キリストに、「聖霊」を注いで、満を持して始められた「三位一体の神の業」です。従って、主の福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけのことではありません。みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちを含めた一切を新たにする、「神の創造の業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「主イエス・キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」の恵みの果実を目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、主イエスにおける「福音の宣教」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/4

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまとともにおられた幼子イエス・キリストを礼拝した後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、クリスマス夜半の礼拝から主の公現の祭日までを、クリスマス(降誕節)の12日間としてお祝いして来ました。クリスマス夜半の礼拝以前のアドベントの期間は、復活祭前の四旬節の期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、クリスマス夜半の礼拝で幼子イエスをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日(本来は1月6日)まで続けられます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、仏教、とくにわたしの学んだ真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神(天)の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法には思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らが母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子イエス・キリストを、彼ら自身の目で見、おそらくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の観念的な知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子イエス・キリスト、まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神(のよう)になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日に、幼子イエスに見たのは、実に「神が人となられた」との真実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を彼らの「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子イエスにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。まったくその逆です。神ご自身が主イエス・キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに与えておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、したがって、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、すでに礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子イエス・キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神キリストを礼拝したはずです。幼子イエスにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子イエスにお会いした後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエス・キリストにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエス・キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めてまったく自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも主によって「神が人となられた」新しい世界にすでに招き入れられています。東方の学者と共にわたしたちも神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「別の道・新しい道」を歩き始めてよいのです

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉2025年1月〜6月