司祭の言葉 4/12

復活節第2主日(神のいつくしみの主日) 
ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日、彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストのご復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日の後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日の礼拝で、ご復活の主イエスが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架のもとにまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主イエスは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主イエス・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主イエスご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主イエスのみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の下に蹲り続けていたトマスを、主は大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主イエスは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架のもとに蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 4/5

復活の聖なる徹夜祭 マタイ28:1-10

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたちは、十字架の後に主のおからだが納められた墓を訪ねました。彼女たちが墓に着いた時、神は、「主の天使」を通して、彼女たちに次のように告げました。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」

「恐れることはない。」

しかし、マグダラのマリアたちは、この時、何を「恐れた」のでしょうか。主イエスが納められたはずの墓が空だったことでしょうか。主を失った後の彼女たちの生の不安でしょうか。

同じ出来事を伝えるルカは、マリアたちはこの時、「主の天使」を見て、「恐れて地に顔を伏せた」と伝えています(ルカ24:5)。明らかにマリアたちは、「主の天使」を通して、今、彼女たちにお会いくださっておられる神を「恐れた」のです。そのマリアたちに、それゆえ、神はおことばをおかけくださったのです。「恐れることはない」

この主のみことばに、わたしは胸を突かれました。このわたしは、どうなのか。神のみ前に「恐れて地に顔を伏せ」、神に「恐れることはない」と言っていただかなければならないほどに、神を「恐れて」いるのだろうか。果たしてわたしはそのように神を、そして神のみを、恐れて生きてきたといえるだろうか。

第二次大戦中、スイスの牧師カール・バルトが、クリスマスに語った説教が残されています。説教の題は『恐れることはない』。この題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母とされるマリアに告げた「マリア、恐れることはない」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きの中で、恐怖と不安に心が動転している当時のスイスの人々に向けて語られた説教でした。バルトは、この説教を次の言葉で結んでいます。

「もし、わたしたちが真に神を、神のみを恐れるならば、わたしたちは神以外の一切のものに対する恐れから自由になる。しかし、もし神を、神のみを恐れることがないならば、わたしたちは、真の神以外の一切のものを恐れて生きるほかはない。」

もし、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」と言うこと自体に、思いも及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という、信仰者という以前に、人として最も大切なことを忘れたままに、神を信じるとは言いつつ、現実には、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは生涯を空しく過すことになってしまったかもしれませんでした。

愛してやまなかった主イエス。頼りにし切っていた主の十字架の死。主イエスのご復活の朝早く、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくその時までは、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、神への恐れというよりも、彼女たちのこれからの生の不安と、さらには主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れであったかも知れません。

しかし、今、神への恐れの内に、神以外の一切のものへの恐れから解き放たれたマグダラのマリアたち。マタイによる福音は続けて、「神を恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」彼女たちの「行く手に、復活の主イエスご自身が立っておられた」と伝えます。その時、「イエスの前に、恐れひれ伏した」マリアたちに、ご復活の主イエスご自身が言われました。

「恐れることはない。」

神は、神のみを「恐れる」者から、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。そして、この神こそ、主イエスにおいて、すでにわたしたちに親しくお会いくださっておられた方です。この神こそ、主イエスにおいて十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。そして、今、神であるこの方が、十字架の死を越えてわたしたちの前に立っておられる。それが、主イエスの復活です。

「マリア、恐れることはない。」

マグダラのマリアだけではありません。これは皆さんお一人おひとりへのご復活の主イエス・キリストからの愛と慰めと励ましのおことばです。

「恐れることはない。」 ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。 

司祭の言葉 4/3

聖金曜日・主の受難 ヨハネ18:1-19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のミサで、わたしたちは主イエスと十二弟子たちとの「過越の食卓」「最後の晩餐」を記念いたしました。続く今日、わたしたちは、十字架におつきになられた主のもとに集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、「信仰は、神秘すなわち秘跡」なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのでしょうか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主イエスはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになりました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、このペテロに主は、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、冷淡とも言えるおことばを返しておられました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書において、「神を信じる」とは、極めて重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには、神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。すなわち、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代人が考えるように、神の存在を知的に承認するというようなわたしたちの心の問題などではなくわたしたちの身を神に捧げること、です。

ペテロは主イエスに、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主のために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信ではなく、彼の殉教によって成就します。ただし、それは主のご復活の後、聖霊の導きによってです。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿はどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主イエスに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。しかし、そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主イエスが、主とともに十字架につけられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこに永遠のいのちがある、神の国があるのです。

しかし、受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、驚くべき事に、ペテロではなく、じつに主イエスの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられた、そのように主がペテロを信じた、という事実ではなかったでしょうか。

主イエスを信じきれず、主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主の方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださった。そのようにして、主の方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。実に、わたしたちが自らを主に捧げきれない中で、先に主イエスの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。わたしたちが主を信じる前に、主がわたしたちを信じてくださったのです。それが、主の十字架です。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主イエスとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは、「神秘つまり秘跡」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。今日、主の十字架のもとで記念するのは、この驚くべき神の恵みの事実です。

「信仰の神秘」。「神秘すなわち秘跡」。それは、わたしたちの思いを超えた神のみ業です。それは、理屈ではありません。今日のペトロのように、主イエスを信じ切れずに疑い、従って主のために命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが、信仰の神秘です。驚くべきことです。しかし、これは神が、事実なさってくださったことです。また、ご聖体の秘跡として、ミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言うような事でも、心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。信仰とは、わたしたちの力を越えた主イエスの事実です。信仰とは、救い主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださった恵みの事実です。

この主イエスに、わたしたちは感謝を以ってわたしたち自身を捧げさせていただく。これ以外に、主にお応えする道はありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主イエスの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身を、ご自身の御からだと御血を、捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/2

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。

ミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主イエス・キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/29

受難の主日(枝の主日) マタイ27:11-54

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「本当に、この人は神の子だった。」

受難の主日(枝の主日)の今日まで、ご一緒に福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主イエスに伴って、主と共に、福音に語られた人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。

主イエスの出会われたひとり一人の辿ってきた人生は異なっていました。その中には素直に、そして心から主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、主を疑い、なお主イエスを神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、今日の福音のエルサレムの群衆のように、一度は主イエスを救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主を「十字架につけよ」、と叫んだ人々もいました。これらの人々の内、一体誰がこのわたしなのでしょうか。実はそのすべての人々がこのわたしである、あるいはこのわたしであった、というべきかもしれません。

使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Iコリ12:3)と教えています。それは同時に「聖霊は、このわたしをさえ『イエスを主と告白する』信仰へと導いてくださった」との、まことの信仰を求めて苦しんだ過去のあるパウロ自身の、聖霊によって働かれる神への感謝と感動の告白でもあるはずです。わたしたちも、今、喜んで主イエスを信じさせていただいているのであれば、それはひとえに聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きであると思います。

事実、主イエスを信じさせていただくと言うことは、わたしたちの知恵や力によるのではなく、聖霊による他ないことです。聖書によれば、神に対する最も深刻な罪とは、道徳的な悪というよりも、自分の知恵や考えに惑わされて神を疑うことです。なぜならば、その結果、わたしたちは主なる神を心底から信じることができず、神なる主に自分を委ね切ることができなくなるからです。神を疑うこの罪に対しては、わたしたちは聖霊に助けていただく他には、なす術がありません。主イエスの時代のファリサイ派の人々や律法学者たちがそうでした。彼らは、約束されていた救い主メシア・キリストを、熱心に待ち望んでいた人々でした。しかし、彼らは主イエスにお会いした時に、彼を救い主キリストと受け入れることができませんでした。主を疑ったのです。主が、自分たちの期待や思惑とは違って見えたからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちの罪の赦しのために黙々と十字架を負って歩まれる主イエス・キリスト。四旬節の間中、主とともに、たくさんの人々に出会い続けてきた中で、実は、わたしたちは、わたしたち自身に、また同時に主イエスご自身に、繰り返しくりかえし出会わせていただいて来たのではなかったでしょうか。主を疑うわたし。しかし、そのようなわたしを憐れみ、主を疑うわたしの罪を一身にご自身の十字架として背負い、背負い抜いてくださる主イエス・キリスト。

主イエスを疑うが故に、かつては主に捧げる何物も用意できなかったこのわたしのために、父なる神は御子キリストにおいてご自身をわたしへの捧げものとして用意してくださったのです。主はそのようなわたしのために、御子キリストにおいて、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで、捧げ尽くしくださいました。それほどまでにしてこのわたしを救ってくださいました。もうこれ以上、わたしは神を疑うわけにはゆかないのです。

「信仰の神秘」。それは、主なる神ご自身が、御子キリストの十字架においてわたしたちの疑いの罪を破り、わたしたちを、もはや主を疑いえない者としてくださったという事実です。それはひとえに聖霊の御働きです。そのようにしてまでして神はわたしたちに『イエスを主と信じる』信仰をお与えくださった、むしろ、主がわたしたちの「信仰」そのものとさえなってくださったのです。聖霊は、神が主イエスにおいて成し遂げてくださった救いを、わたしたちの身の事実としてくださるのです。

自らの思惑が捨て切れず神を疑うこのわたしが、主イエスを救い主キリストと信じさせていただくためには、主の十字架と聖霊の御恵みによる他ありませんでした。ここに初めてかつ最終的に、わたしの神への疑いが破られ、神を信じ、自らを神に委ね切り、神に捧げつくして生きる新しい命が、このわたしに与えられたのです。

ミサでいただくのは、「信仰の神秘」である主イエス・キリストご自身ですそれは、わたしたちの罪の赦しのために十字架においてご自身を父なる神に捧げてくださった主イエスご自身の御からだと御血です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/22

四旬節第5主日 ヨハネ11:1-45

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

エルサレムに程近いベタニヤの町。その町のマルタとマリアの兄弟ラザロが重篤との知らせを受けた時の主イエスのみことばです。その後、主がラザロを訪ねられた時には、すでに彼の死後四日が経過していました。しかし、主はそのラザロを甦らせてマルタとマリアに返してくださいました。これが今日の福音の伝える物語です。

先の主日、主イエスが一人の盲目の人に出会われた時、弟子たちが主に、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問うた時、主は彼らに仰せになっておられました。

(この人が生まれつきの重い障害を負ったのは、)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

先主日の福音は「障害と、それに対する人々の無理解と差別という人生の重い十字架」を、今日の福音は「突然の病と死」を主題としています。人生の不条理の前に、現在でも人々はただ恐れ怯えるしか術がありません。しかし、そのいずれも、主イエスが「神の業」を遂行されるための妨げにはなりません。かえって「神の業」・「神の栄光」が現わされる機会である、と主は仰せです。ただし、誰によって、誰に対して、またいかにして、「神の業が遂行され、神の栄光が現わされる」のでしょうか。

先主日の福音で主イエスは、「神の業がこの人(障害に加えて、謂れない罪責感さえ強いられた人)に現れるためである」と、さらに今日の福音で「神の子が、それ(病を癒し、死者を生き返らせること)によって栄光を受けるのである」と仰せでした。

「神の栄光」の「栄光」という言葉は、通常「光り輝く」という意味で理解されます。しかし、元来「栄光」とは「重いもの」という意味の言葉です。「神の子キリストが、栄光をお受けになる。」このように仰せの主イエスには、わたしたちに代ってご自身のお受けになる「栄光、すなわち重いもの」が何かを、すでにご存知であられたはずです。主イエスの負われる「栄光」、明らかにそれは主の負われる「十字架」です。

死んだラザロの前に、主イエスが、今、立っておられます。ラザロに「神の業」が現れるために。ラザロに、再び復活のいのちをお与えになられるために。そのことによって、主イエスが栄光をお受けになられるために。すなわち、主イエスがラザロに代って、彼の病と死という重い十字架を彼に代わって負い切ってくださるために。

福音は、単に主イエスが死んだラザロを甦らせたという奇跡を伝えているのではありません。福音は、ラザロに神の業が現わされた、すなわち主イエスが栄光をお受けになられたという真実を伝えています。それ主がラザロの十字架を担い切り、代わりに彼に主ご自身のいのちをお与えくださったという出来事です。

先週は重い障害を負った人を前に、当時の人々の考えた「因果応報、即ち罪とその報い」に恐れ慄いた主イエスの弟子たちがいました。今日も、兄弟ラザロの死を前にして、全く無力なマルタとマリアがいました。主は、先週の盲目の人や、今日のラザロだけではなく、彼らを取り巻く全ての人々に対して救い主となられたはずです。

彼らが体験したことが、主イエスによる単に奇跡的な病気の癒しや死人の一時的な蘇生であれば、彼らの「因果応報・罪とその報い」に対する恐怖や死の絶望は、結局は解決されないまま残ります。人は再び病み、いつかは死ぬからです。しかし、彼らが主イエスにおいて父なる神に出会ったのであれば、それが彼らの救いです。真の救いとは、キリストにおいて父なる神に会わせていただくこと、だからです。

事実、先週の盲目の人と今日のラザロ、さらに主イエスの弟子たちやマルタとマリアを始め、彼らを取り巻くすべての人々は、その時、確かに主イエスにおいて、まことにして唯一の父なる神にお会いしたのです。救われたのは、盲目の人とラザロだけではありません。彼らすべて、十字架の栄光の主に見(まみ)えたすべての人が救われたのです。その時、主は、わたしたち全ての救い・「福音」となられたのです。

先週の盲人の癒し、今日のラザロの復活。二つの出来事において、わたしたちの前に、今、お立ちになっておられるのは、奇跡の行者イエスなどではなく、十字架と復活の主イエス・救い主キリストです。次週の聖週間のご受難の主を、既に指し示して。

「わたしは復活であり、いのちである。このことを信じるか。」

わたしたちはマルタと共に、この問いを問われる主イエスのみ前に立っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/15

四旬節第4主日 ヨハネ9:1-41

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、一人の「生まれつき目の見えない人」の目を開いてくださいました。しかし、ヨハネによる福音は、主によるこの癒しの奇跡を伝えるだけで物語を終えてはいません。物語は続きます。その後暫くして、主は再び彼に出会われ、「あなたは人の子を信じるか」と問われたと伝えています。ここで、「人の子」という旧約以来の特別な言い方は、この時代には「来たるべき救い主キリスト」を意味していました。

「あなたは人の子を信じるか。」この主イエスの問いに、主によって目を開いていただいた人は、即座に、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。その彼に、主は次のように仰せになりました。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

この主イエスのことばに、彼は、「『主よ、信じます』と言って、『ひざまずいた』」、と福音は伝えています。主のみ前に「跪いた」とは、主に対し、「膝を屈め、首(こうべ)を垂れ、合掌・礼拝した」ということでしょう。事実その時、彼は主のみ前に跪いて合掌礼拝する他なかったと思います。「生まれつき目が見えない」という、それまでの長く、重く、苦しかった彼の全生涯を通して、ただひたすらに待ち望んできた「人の子」つまり「救い主キリスト」を、彼は、確かに「見た」からです。

「キリストを見た」。実はこの時こそ、真実に「彼の目が主イエスによって開かれた時」であったと思います。主イエスを、救い主キリストとはっきりと「見させていただいた時」。同時に、それは彼にとって主イエスのみ前に「跪いて、まことの神を初めて礼拝させていただいた時」、すなわち神に見(まみ)えた時でもありました。

「キリストを見る」それは「キリストにおいて神を見る(神にまみえる)」ということです。旧約聖書が繰り返し語るように、わたしたち罪人、「罪によって汚された目」のわたしたちには、「聖なる神を見る」ことは本来赦されることではありません。

主イエスによって、目を開いていただく。それは主によってわたしたちの罪が赦され、聖なる神のみ前にわたしたちを再び聖別していただくことに他なりません。そのことなしに、わたしたちが「神を見る(見える)」ことはできないからです。そうであれば、今日の福音が語る奇跡の物語は「生まれつき目の見えない人」に限っての物語つまり他人事ではないはずです。それはわたしたちの物語でもあるはずです。

「キリストを見る(神に見(まみ)える)」。カトリック教会は、この言葉で、ミサにおけるご聖体のキリストとの出会いの深い体験を言いあらわして来ました。興味深い事に、日本語の「見(まみ)える」という言葉が、「見る」と「会う」とを重ねて意味するように、ギリシャ語を始め西洋の言葉でも、例えば、英語の ”I see Christ”のように、「キリストを見る」と「キリストに見(まみ)える(会う)」とは同じ言い方を致します。

ミサは、「キリストと出会わせていただく時」です。そこには、主イエスに招かれて、主にお会いできた喜び、再び主のみ許に、しかも主の食卓に帰ることを赦された安堵の思いがあります。しかし同時に、ミサは、畏れを以て「キリストを見させていただく時、神を見る者とさせていただく時」でもあります。そこには、主のみ前に露わにされた罪に対するわたしたちの深い懺悔と、主によって罪赦された感謝があります。「畏れと感謝を以て主のみ前に跪かせていただく時」、それがミサです。

ところで今日の福音は、主イエスがこの「生まれつき目の見えない人」に出会われた時の、弟子たちの主への奇妙な問いかけで始められていました。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」彼らの問いに主は、次のように仰せでした。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

主イエスのこのことばには、先の問いを主に問うたユダヤ人の弟子のみならず、日本のわたしたちを含む世界のすべての人々の宗教的常識、むしろ宗教的錯誤を一気に、かつ完璧に覆すだけの力があると、わたしは信じます。このような宗教的錯誤の犠牲になって、どれだけ多くの障害や困難を負う方々が、すでに十分である彼らの苦しみに加えて、罪責感という重荷をさえ負わされて来たことでしょうか。

主イエスは、この時「生まれつき目が見えない人」のみならず、その人に対して謂(いわ)れ無き罪責感をさえ強いてきた、無知なわたしたちのために悲しみ涙されたに違いないと思います。主が「救い主」として来てくださったのは、実に、このわたしを含むすべてのためでした。「神の業がわたしたちすべてに現れるために。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/8

四旬節第3主日 ヨハネ4:5-42

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」

他の何ゆえでもないと思います。この言葉を主イエスに告白したペトロと同じく、やむにやまれぬ思いで、わたしたちはこのミサに集まってまいりました。

ミサに集まる。もちろんそれは、ご復活の主イエス・キリストにお会いさせていただくためです。ご復活の主は、わたしたち一人ひとりに、仰せくださいました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」

わたしたちには、ご復活の主イエスのこのお約束のことばだけが頼りです。また、悩みや苦しみに満ちた日々の生活を生きるわたしたちの、唯一の望みです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたともにいる。」事実、このおことばほどの確かな慰めは他には決してありません。これは、復活された主イエスのおことばだからです。この方は、すでに十字架によって死に打ち勝っておられます。主は、わたしたち一人ひとりの苦しみ、悩みと罪との一切を、わたしたちに代ってすでに負い切ってくださり、十字架でそのすべてを贖い、その上で、復活してくださいました。ご自身の死をさえ超えて、わたしたちといつも「ともにいて」くださるために。

ご復活の主イエス・キリストのうちに、わたしたちのすべての問題が、すでに解決されています。だから、苦しい時、本当に孤独な時、どうしたらよいかまったく分からなくなってしまった時、わたしたちは、他の誰でもない、主にお会いしたいのです。ご復活の主に、お会いしたいのです。ちょうど、長い病気に苦しみ抜いていた女性のように。わたしたちも、主の御衣の裾にでも触れさせていただきたいと願います。

あるいは、今日の福音のサマリアの女性のように。酷暑の中の水汲みのように、報われることのない、また、いつ終わるとも知れない繰り返しのような日々の中で、誰にも心を留められることもなく、誰にも心を開く事も出来ず、やり場のない、また癒されることのない肉体の疲れと、魂の渇きの中で、体の芯から魂を癒してくれるいのちの水を求めて、わたしたちは救い主イエスを求めます。

わたしたちは、主イエスに「すがらせていただきたい」、「信じさせていただきたい」、「礼拝させていただきたい」のです。それは他でもない、自分の一切を、自分で自分を持てあますようなわたしたちを、主に「委ね切らせていただきたい」からです。「信じる」とは、そして「礼拝する」とは、「委ね切る」ことだからです。そうする他ないのです。だからサマリアの女性は、「礼拝」について主に尋ねるのです。きれいごとでは無い。彼女は主にすがり、主に自分をお委ねするほかなかったのです。

わたしたちは、福音の語る長い病気に苦しめられた女性の苦しみがよくわかります。サマリアの女性の魂の渇きが、痛いほどわかります。なぜなら、彼女たちは、わたしたちだからです。ご復活の主イエスにお会いさせていただきたい。福音の女性たちの願いは、わたしたち一人ひとりの願いです。わたしたちも、この同じ方に自らを委ねさせていただきたいのです。お委ねするほかないのです。ご復活の主のほかに、わたしたち解決はどこにもないからです。わたしたちのために、すでに死に打ち勝たれたこの方をおいては、わたしたちの新しいいのちは、どこにもないからです。

「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」ペトロの思いのたけの言葉のように、わたしたちはこの一つの思いで、今、ミサに集まって来ました。一週間の全てを携え、疲れた体、乾いた魂を携え、今、ミサに集まって来ました。ここで、このミサで、確実にご復活の主イエスにお会いさせていただけるからです

「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」もう、他のどこをも、他の誰をも尋ね廻らなくてよいのです。癒されることのない魂の渇きの癒しを求めて、井戸から井戸へと尋ねることは、もう終わりです。なぜなら、今、ここに、ご復活の主イエス・キリストがおられるからです。それが、ミサです。

今、ここに、ご復活の主イエスがおられる。ご聖体の内に。ご聖体にまでご自分を低く小さくされてわたしたちにお会いくださるために。そのようにしてまで、わたしたちにご自身のいのちをお与えくださるために。そしてご復活の主のいのちは、わたしたちの内で泉となり、永遠に変わることなくわたしたちを潤し続けてくださる。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/1

四旬節第2主日 マタイ17:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

わたしが長くお仕えした川越教会の旧担当司祭方、ローランド神父、ラバルト神父、シャール・アンドレ神父、ワレ神父が帰天されて年を重ねました。川越在任中、多くの方々から神父さま方についてお聞かせいただきました。笑顔を絶やさず、誰にも親切であられた神父さま方が、いかに大きな存在であられたかを教えられました。

わたしたちは人との関係が親しさを増して行く中で、その方の真実の姿を、つい見過ごしてしまうようになる危険がないとは限りません。主イエスの弟子たちも、主と親しく生活を共にさせていただく中で、ともすれば主への自分たちの期待や願いや思いが先に立ってしまうような誘惑があったのではないでしょうか。

その弟子たちの目に、父なる神は、彼らが主イエスと共に最後にエルサレムに上る直前に、主が実はいかなる方であるのかをはっきりお示しくださいました。主は、たんに優れた人生の教師、偉大なる義人などではないからです。そのために父なる神は、主と共にペトロたちを高い山に登らせ、彼らに御子の光り輝く真実のみ姿を目に見ることをさえお許しくださいました。それが今日の福音です。

それに加えて、父なる神は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の主イエスの弟子たちの耳に、御子を指し示して、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、誰の耳にもはっきりとお語りくださいました。

同時にその時、ペトロたちの目の前で、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセと共に現れて、主イエスご自身と語り合っておられたことをも彼らは「見た」と福音は伝えていました。ただし、主イエスはこの時、モーセとエリアと共に、何を語り合っておられたのでしょうか。

同じ出来事を伝えるルカによる福音は、それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと、はっきりと伝えています。

「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」。このことばから、エルサレムでの主イエスの最後、すなわち主のご受難と十字架の死を思います。

確かに、主イエスは、エルサレムで最後、すなわち十字架の死を遂げられます。しかし、実は、ルカの福音で「最期」と訳されている言葉は、元のギリシャ語では、単に「終わり」という意味の言葉ではなく、「過ぎ越し」(エクソドス)と言う言葉なのです。つまり、主イエスが、モーセとエリアと共に語りあっておられたのは、主の十字架のみならず、主の過越の出来事の全体であったということです。

もちろんそれは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主イエスの十字架の死を内に含みます。しかし、主の十字架の死に終始しません。「主の過越」。それは、主が、エルサレムでのご受難と十字架の死によって死に打ち勝ち、さらに、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、「主イエス・キリストの過越の出来事の全体」です。

「主の過越の全体」を以て、主イエスはわたしたちの「救い」を「成就」してくださいます。第一に、主はご自身のご受難と十字架の死によって、わたしたちの罪を贖ってくださいます。主が、わたしたちの罪の一切をご自身の十字架として負い抜いてくださる。それによってしか、わたしたちにとって罪を赦される道はないからです。

主イエスのわたしたちへの愛は、ご自身の十字架の死の犠牲においても、終わることはありません。主は十字架の死の後、わたしたちのために、「復活」してくださいます。十字架の死を越えて、主は復活され、ご自身の「いのちの息」である「聖霊」を、わたしたちに吹き込んでくださるためです。ひとえにわたしたちへの愛ゆえに。

それは、汚れた霊・罪によって神から離れていたわたしたちを「聖霊」によって聖め、聖くされたわたしたちを、ミサでの主イエスご自身の奉献に招き加えて、わたしたちをも「神への聖い捧げもの」として、再び神の御許に返してくださるためです。

「主の過越」。それは、罪に死んでいたわたしたちを十字架によって罪から贖い、さらに復活によってわたしたちに聖霊を注いで新しい者とし、遂には神に帰るいのちをわたしたちにお与えくださるための、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

「主イエス・キリストの過越」。それは、神なる主の愛による「主の十字架からご復活のいのちへと、主に結ばれたわたしたち自身の過越」でもあるのです。それが、主がエルサレムでわたしたちのために成し遂げてくださる恵みの出来事の全体です。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/22

四旬節第1主日 マタイ4:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。当日のミサでは、灰を頭ないし額に受けました。聖書では、灰を頭に被ることは、神のみ前での懺悔と回心を表します。この心で、四旬節の期間を過したいと願います。

四旬節の四十と言う数字は、主イエスが荒れ野で「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」ことに因みます。「悪魔」と訳された聖書の原語“サタン”は、「(神からわたしたちを)引き離す者」「(わたしたちを神に)背かせる者」を意味する言葉です。

ところで、マタイによる福音は、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため」と語った後、不思議なことを伝えていました。に導かれて荒れ野に行かれた。」主イエスを荒野の試練に導き出したのは、悪魔ではなく、「神の霊」であったというのです。

ここで「神の霊」とは、今日の福音の直前にマタイが伝えていた、主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天の父なる神から与えられた「神の霊」つまり「聖霊」です。マタイは、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、『神の霊』が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった」と伝えていました。その同じ「父なる神の霊」・「聖霊」が、御子キリストを荒れ野の試練に導き出したというのです。

どういうことなのか。しかし、そうであれば、荒野で主イエスの受けられた試練は神のみ旨によるものであり、それを通して父なる神が主において成し遂げてくださる、わたしたちの救いのための大切なご計画があるということに違いありません。

ところで、今日の福音が語る主イエスの受けられた「悪魔(サタン)からの誘惑」は、よく考えてみると、わたしたち自身が繰り返し「悪魔」から受けている「誘惑」なのではないか。わたしたちは、大切な命や知恵や力を含めて、神と人とに仕えて生きるために過分な恵みを神から受けています。しかし、悪魔はわたしたちに神から受けた大きな恵みを当然のように思わせ、不満をさえ抱かせ、さらに神から与えられた知恵や力の恵みを用いて「神を試し、神に背き、神から離れる」ようにと誘います。

日本語でも「受けた恩に仇(あだ)で報いる」ということわざがあります。もちろん、そのように振舞う者は、人ではありません。同様に、神から受けた恵みによって、神に背くのであれば、もはや人とは言えません。従って、「悪魔からの誘惑」とは、もしそれに屈すれば、人が人でなくなってしまうような「罪の誘惑」ではないでしょうか。

そのような、事実わたしたちが受けている「悪魔からの誘惑」の一切を、実は、主イエスが、わたしたちに先んじて、わたしたちに代って味わい尽くしてくださった。それのみならず、その上で、「悪魔の誘惑」の一切に、主がわたしたちのために、前もって勝利を収めてくださった。これが、今日に福音が伝える、「神の霊」・「聖霊」に導かれての主の荒れ野の四十日の試練だったのではないでしょうか。

ところで主イエスは、荒野の四十日の試練の直後から、神の国の福音の宣教をお始めになります。その中で、主は、「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から「汚れた霊を追い出」して行かれます。「汚れた霊」・「悪霊」を追い出すことができるのは、「聖い霊」、すなわち「聖霊」だけです。

そうであれば、主イエスの福音宣教とは、主がご自身の内に働かれる「神の霊」・「聖霊」によって、わたしたちから「汚れた霊」・「悪霊」即ち「悪魔」を追い出し、わたしたちを神から離れず、神と堅く結びつけてくださる救いの業であるはずです。

主イエスは、荒野での試練において、「聖い霊」・「聖霊」によってわたしたちのために「汚れた霊」・「悪魔」に対して前もって勝利を収めてくださいました。「悪魔」に対する「聖霊」における主の勝利。わたしたちのために。それが今日の福音です。

主イエスは、荒野での四十日の試練の後、「汚れた霊」に取り憑かれたわたしたち一人ひとりから「聖霊」によって「汚れた霊を追い出し」、そのようにして、罪深いわたしたちのために、「汚れた霊」・「悪魔」に対して、常に、そして永遠に勝利を収め続けてくださいます。それが、わたしたちに対する主の福音宣教です。

ただし、主イエスの「聖霊」による「汚れた霊」に対する最後の勝利は、主ご自身の尊い自己犠牲である十字架とご復活、つまり「主の過越」を通してのみ勝ち取られ、わたしたちに成就するものであることを深く心に留めたいと思います。

四旬節第1主日の福音、荒野での悪魔の試練に対する主イエスの勝利は、わたしたちのための主の十字架における最後の勝利を、明確に指し示しています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。