司祭の言葉 3/29

受難の主日(枝の主日) マタイ27:11-54

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「本当に、この人は神の子だった。」

受難の主日(枝の主日)の今日まで、ご一緒に福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主イエスに伴って、主と共に、福音に語られた人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。

主イエスの出会われたひとり一人の辿ってきた人生は異なっていました。その中には素直に、そして心から主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、主を疑い、なお主イエスを神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、今日の福音のエルサレムの群衆のように、一度は主イエスを救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主を「十字架につけよ」、と叫んだ人々もいました。これらの人々の内、一体誰がこのわたしなのでしょうか。実はそのすべての人々がこのわたしである、あるいはこのわたしであった、というべきかもしれません。

使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Iコリ12:3)と教えています。それは同時に「聖霊は、このわたしをさえ『イエスを主と告白する』信仰へと導いてくださった」との、まことの信仰を求めて苦しんだ過去のあるパウロ自身の、聖霊によって働かれる神への感謝と感動の告白でもあるはずです。わたしたちも、今、喜んで主イエスを信じさせていただいているのであれば、それはひとえに聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きであると思います。

事実、主イエスを信じさせていただくと言うことは、わたしたちの知恵や力によるのではなく、聖霊による他ないことです。聖書によれば、神に対する最も深刻な罪とは、道徳的な悪というよりも、自分の知恵や考えに惑わされて神を疑うことです。なぜならば、その結果、わたしたちは主なる神を心底から信じることができず、神なる主に自分を委ね切ることができなくなるからです。神を疑うこの罪に対しては、わたしたちは聖霊に助けていただく他には、なす術がありません。主イエスの時代のファリサイ派の人々や律法学者たちがそうでした。彼らは、約束されていた救い主メシア・キリストを、熱心に待ち望んでいた人々でした。しかし、彼らは主イエスにお会いした時に、彼を救い主キリストと受け入れることができませんでした。主を疑ったのです。主が、自分たちの期待や思惑とは違って見えたからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちの罪の赦しのために黙々と十字架を負って歩まれる主イエス・キリスト。四旬節の間中、主とともに、たくさんの人々に出会い続けてきた中で、実は、わたしたちは、わたしたち自身に、また同時に主イエスご自身に、繰り返しくりかえし出会わせていただいて来たのではなかったでしょうか。主を疑うわたし。しかし、そのようなわたしを憐れみ、主を疑うわたしの罪を一身にご自身の十字架として背負い、背負い抜いてくださる主イエス・キリスト。

主イエスを疑うが故に、かつては主に捧げる何物も用意できなかったこのわたしのために、父なる神は御子キリストにおいてご自身をわたしへの捧げものとして用意してくださったのです。主はそのようなわたしのために、御子キリストにおいて、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで、捧げ尽くしくださいました。それほどまでにしてこのわたしを救ってくださいました。もうこれ以上、わたしは神を疑うわけにはゆかないのです。

「信仰の神秘」。それは、主なる神ご自身が、御子キリストの十字架においてわたしたちの疑いの罪を破り、わたしたちを、もはや主を疑いえない者としてくださったという事実です。それはひとえに聖霊の御働きです。そのようにしてまでして神はわたしたちに『イエスを主と信じる』信仰をお与えくださった、むしろ、主がわたしたちの「信仰」そのものとさえなってくださったのです。聖霊は、神が主イエスにおいて成し遂げてくださった救いを、わたしたちの身の事実としてくださるのです。

自らの思惑が捨て切れず神を疑うこのわたしが、主イエスを救い主キリストと信じさせていただくためには、主の十字架と聖霊の御恵みによる他ありませんでした。ここに初めてかつ最終的に、わたしの神への疑いが破られ、神を信じ、自らを神に委ね切り、神に捧げつくして生きる新しい命が、このわたしに与えられたのです。

ミサでいただくのは、「信仰の神秘」である主イエス・キリストご自身ですそれは、わたしたちの罪の赦しのために十字架においてご自身を父なる神に捧げてくださった主イエスご自身の御からだと御血です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/22

四旬節第5主日 ヨハネ11:1-45

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

エルサレムに程近いベタニヤの町。その町のマルタとマリアの兄弟ラザロが重篤との知らせを受けた時の主イエスのみことばです。その後、主がラザロを訪ねられた時には、すでに彼の死後四日が経過していました。しかし、主はそのラザロを甦らせてマルタとマリアに返してくださいました。これが今日の福音の伝える物語です。

先の主日、主イエスが一人の盲目の人に出会われた時、弟子たちが主に、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問うた時、主は彼らに仰せになっておられました。

(この人が生まれつきの重い障害を負ったのは、)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

先主日の福音は「障害と、それに対する人々の無理解と差別という人生の重い十字架」を、今日の福音は「突然の病と死」を主題としています。人生の不条理の前に、現在でも人々はただ恐れ怯えるしか術がありません。しかし、そのいずれも、主イエスが「神の業」を遂行されるための妨げにはなりません。かえって「神の業」・「神の栄光」が現わされる機会である、と主は仰せです。ただし、誰によって、誰に対して、またいかにして、「神の業が遂行され、神の栄光が現わされる」のでしょうか。

先主日の福音で主イエスは、「神の業がこの人(障害に加えて、謂れない罪責感さえ強いられた人)に現れるためである」と、さらに今日の福音で「神の子が、それ(病を癒し、死者を生き返らせること)によって栄光を受けるのである」と仰せでした。

「神の栄光」の「栄光」という言葉は、通常「光り輝く」という意味で理解されます。しかし、元来「栄光」とは「重いもの」という意味の言葉です。「神の子キリストが、栄光をお受けになる。」このように仰せの主イエスには、わたしたちに代ってご自身のお受けになる「栄光、すなわち重いもの」が何かを、すでにご存知であられたはずです。主イエスの負われる「栄光」、明らかにそれは主の負われる「十字架」です。

死んだラザロの前に、主イエスが、今、立っておられます。ラザロに「神の業」が現れるために。ラザロに、再び復活のいのちをお与えになられるために。そのことによって、主イエスが栄光をお受けになられるために。すなわち、主イエスがラザロに代って、彼の病と死という重い十字架を彼に代わって負い切ってくださるために。

福音は、単に主イエスが死んだラザロを甦らせたという奇跡を伝えているのではありません。福音は、ラザロに神の業が現わされた、すなわち主イエスが栄光をお受けになられたという真実を伝えています。それ主がラザロの十字架を担い切り、代わりに彼に主ご自身のいのちをお与えくださったという出来事です。

先週は重い障害を負った人を前に、当時の人々の考えた「因果応報、即ち罪とその報い」に恐れ慄いた主イエスの弟子たちがいました。今日も、兄弟ラザロの死を前にして、全く無力なマルタとマリアがいました。主は、先週の盲目の人や、今日のラザロだけではなく、彼らを取り巻く全ての人々に対して救い主となられたはずです。

彼らが体験したことが、主イエスによる単に奇跡的な病気の癒しや死人の一時的な蘇生であれば、彼らの「因果応報・罪とその報い」に対する恐怖や死の絶望は、結局は解決されないまま残ります。人は再び病み、いつかは死ぬからです。しかし、彼らが主イエスにおいて父なる神に出会ったのであれば、それが彼らの救いです。真の救いとは、キリストにおいて父なる神に会わせていただくこと、だからです。

事実、先週の盲目の人と今日のラザロ、さらに主イエスの弟子たちやマルタとマリアを始め、彼らを取り巻くすべての人々は、その時、確かに主イエスにおいて、まことにして唯一の父なる神にお会いしたのです。救われたのは、盲目の人とラザロだけではありません。彼らすべて、十字架の栄光の主に見(まみ)えたすべての人が救われたのです。その時、主は、わたしたち全ての救い・「福音」となられたのです。

先週の盲人の癒し、今日のラザロの復活。二つの出来事において、わたしたちの前に、今、お立ちになっておられるのは、奇跡の行者イエスなどではなく、十字架と復活の主イエス・救い主キリストです。次週の聖週間のご受難の主を、既に指し示して。

「わたしは復活であり、いのちである。このことを信じるか。」

わたしたちはマルタと共に、この問いを問われる主イエスのみ前に立っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/15

四旬節第4主日 ヨハネ9:1-41

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、一人の「生まれつき目の見えない人」の目を開いてくださいました。しかし、ヨハネによる福音は、主によるこの癒しの奇跡を伝えるだけで物語を終えてはいません。物語は続きます。その後暫くして、主は再び彼に出会われ、「あなたは人の子を信じるか」と問われたと伝えています。ここで、「人の子」という旧約以来の特別な言い方は、この時代には「来たるべき救い主キリスト」を意味していました。

「あなたは人の子を信じるか。」この主イエスの問いに、主によって目を開いていただいた人は、即座に、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。その彼に、主は次のように仰せになりました。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

この主イエスのことばに、彼は、「『主よ、信じます』と言って、『ひざまずいた』」、と福音は伝えています。主のみ前に「跪いた」とは、主に対し、「膝を屈め、首(こうべ)を垂れ、合掌・礼拝した」ということでしょう。事実その時、彼は主のみ前に跪いて合掌礼拝する他なかったと思います。「生まれつき目が見えない」という、それまでの長く、重く、苦しかった彼の全生涯を通して、ただひたすらに待ち望んできた「人の子」つまり「救い主キリスト」を、彼は、確かに「見た」からです。

「キリストを見た」。実はこの時こそ、真実に「彼の目が主イエスによって開かれた時」であったと思います。主イエスを、救い主キリストとはっきりと「見させていただいた時」。同時に、それは彼にとって主イエスのみ前に「跪いて、まことの神を初めて礼拝させていただいた時」、すなわち神に見(まみ)えた時でもありました。

「キリストを見る」それは「キリストにおいて神を見る(神にまみえる)」ということです。旧約聖書が繰り返し語るように、わたしたち罪人、「罪によって汚された目」のわたしたちには、「聖なる神を見る」ことは本来赦されることではありません。

主イエスによって、目を開いていただく。それは主によってわたしたちの罪が赦され、聖なる神のみ前にわたしたちを再び聖別していただくことに他なりません。そのことなしに、わたしたちが「神を見る(見える)」ことはできないからです。そうであれば、今日の福音が語る奇跡の物語は「生まれつき目の見えない人」に限っての物語つまり他人事ではないはずです。それはわたしたちの物語でもあるはずです。

「キリストを見る(神に見(まみ)える)」。カトリック教会は、この言葉で、ミサにおけるご聖体のキリストとの出会いの深い体験を言いあらわして来ました。興味深い事に、日本語の「見(まみ)える」という言葉が、「見る」と「会う」とを重ねて意味するように、ギリシャ語を始め西洋の言葉でも、例えば、英語の ”I see Christ”のように、「キリストを見る」と「キリストに見(まみ)える(会う)」とは同じ言い方を致します。

ミサは、「キリストと出会わせていただく時」です。そこには、主イエスに招かれて、主にお会いできた喜び、再び主のみ許に、しかも主の食卓に帰ることを赦された安堵の思いがあります。しかし同時に、ミサは、畏れを以て「キリストを見させていただく時、神を見る者とさせていただく時」でもあります。そこには、主のみ前に露わにされた罪に対するわたしたちの深い懺悔と、主によって罪赦された感謝があります。「畏れと感謝を以て主のみ前に跪かせていただく時」、それがミサです。

ところで今日の福音は、主イエスがこの「生まれつき目の見えない人」に出会われた時の、弟子たちの主への奇妙な問いかけで始められていました。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」彼らの問いに主は、次のように仰せでした。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

主イエスのこのことばには、先の問いを主に問うたユダヤ人の弟子のみならず、日本のわたしたちを含む世界のすべての人々の宗教的常識、むしろ宗教的錯誤を一気に、かつ完璧に覆すだけの力があると、わたしは信じます。このような宗教的錯誤の犠牲になって、どれだけ多くの障害や困難を負う方々が、すでに十分である彼らの苦しみに加えて、罪責感という重荷をさえ負わされて来たことでしょうか。

主イエスは、この時「生まれつき目が見えない人」のみならず、その人に対して謂(いわ)れ無き罪責感をさえ強いてきた、無知なわたしたちのために悲しみ涙されたに違いないと思います。主が「救い主」として来てくださったのは、実に、このわたしを含むすべてのためでした。「神の業がわたしたちすべてに現れるために。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/8

四旬節第3主日 ヨハネ4:5-42

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」

他の何ゆえでもないと思います。この言葉を主イエスに告白したペトロと同じく、やむにやまれぬ思いで、わたしたちはこのミサに集まってまいりました。

ミサに集まる。もちろんそれは、ご復活の主イエス・キリストにお会いさせていただくためです。ご復活の主は、わたしたち一人ひとりに、仰せくださいました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」

わたしたちには、ご復活の主イエスのこのお約束のことばだけが頼りです。また、悩みや苦しみに満ちた日々の生活を生きるわたしたちの、唯一の望みです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたともにいる。」事実、このおことばほどの確かな慰めは他には決してありません。これは、復活された主イエスのおことばだからです。この方は、すでに十字架によって死に打ち勝っておられます。主は、わたしたち一人ひとりの苦しみ、悩みと罪との一切を、わたしたちに代ってすでに負い切ってくださり、十字架でそのすべてを贖い、その上で、復活してくださいました。ご自身の死をさえ超えて、わたしたちといつも「ともにいて」くださるために。

ご復活の主イエス・キリストのうちに、わたしたちのすべての問題が、すでに解決されています。だから、苦しい時、本当に孤独な時、どうしたらよいかまったく分からなくなってしまった時、わたしたちは、他の誰でもない、主にお会いしたいのです。ご復活の主に、お会いしたいのです。ちょうど、長い病気に苦しみ抜いていた女性のように。わたしたちも、主の御衣の裾にでも触れさせていただきたいと願います。

あるいは、今日の福音のサマリアの女性のように。酷暑の中の水汲みのように、報われることのない、また、いつ終わるとも知れない繰り返しのような日々の中で、誰にも心を留められることもなく、誰にも心を開く事も出来ず、やり場のない、また癒されることのない肉体の疲れと、魂の渇きの中で、体の芯から魂を癒してくれるいのちの水を求めて、わたしたちは救い主イエスを求めます。

わたしたちは、主イエスに「すがらせていただきたい」、「信じさせていただきたい」、「礼拝させていただきたい」のです。それは他でもない、自分の一切を、自分で自分を持てあますようなわたしたちを、主に「委ね切らせていただきたい」からです。「信じる」とは、そして「礼拝する」とは、「委ね切る」ことだからです。そうする他ないのです。だからサマリアの女性は、「礼拝」について主に尋ねるのです。きれいごとでは無い。彼女は主にすがり、主に自分をお委ねするほかなかったのです。

わたしたちは、福音の語る長い病気に苦しめられた女性の苦しみがよくわかります。サマリアの女性の魂の渇きが、痛いほどわかります。なぜなら、彼女たちは、わたしたちだからです。ご復活の主イエスにお会いさせていただきたい。福音の女性たちの願いは、わたしたち一人ひとりの願いです。わたしたちも、この同じ方に自らを委ねさせていただきたいのです。お委ねするほかないのです。ご復活の主のほかに、わたしたち解決はどこにもないからです。わたしたちのために、すでに死に打ち勝たれたこの方をおいては、わたしたちの新しいいのちは、どこにもないからです。

「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」ペトロの思いのたけの言葉のように、わたしたちはこの一つの思いで、今、ミサに集まって来ました。一週間の全てを携え、疲れた体、乾いた魂を携え、今、ミサに集まって来ました。ここで、このミサで、確実にご復活の主イエスにお会いさせていただけるからです

「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」もう、他のどこをも、他の誰をも尋ね廻らなくてよいのです。癒されることのない魂の渇きの癒しを求めて、井戸から井戸へと尋ねることは、もう終わりです。なぜなら、今、ここに、ご復活の主イエス・キリストがおられるからです。それが、ミサです。

今、ここに、ご復活の主イエスがおられる。ご聖体の内に。ご聖体にまでご自分を低く小さくされてわたしたちにお会いくださるために。そのようにしてまで、わたしたちにご自身のいのちをお与えくださるために。そしてご復活の主のいのちは、わたしたちの内で泉となり、永遠に変わることなくわたしたちを潤し続けてくださる。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。