年間第21主日 ルカ13:22-30
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かっておられた。」すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と、主イエスに問いかけた人がいました。主は、この問いに応えて弟子たちを含めた一同に仰せになられました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
今日の福音の主イエスご自身のおことばは、罪ゆえに焦点を失っていたわたしたちの目を、「狭い戸口」である主に焦点を合わせるようにと導いてくれます。
ただし、主イエスはどこへの「狭い戸口」なのでしょうか。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」との問いを受けて、主イエスが続けて語られた「たとえ」において、「救われる」と言うことを、主ご自身が「神の国に入る」、あるいは「神の国で宴会の席に着く」と、言いかえておられます。
そうであれば、主イエスは「神の国」への「狭い戸口」であることが明らかです。
ルカによる福音では、今日のみことばに先立ち、主イエスはエルサレム入城に備えて、「ご自身の時」が近づいていることを弟子たちにお告げになられた上で、「目を覚ましていなさい」と仰せになっておられました。
それは、エルサレムで主イエスが成し遂げてくださる一切、すなわち主の十字架とご復活を「目を覚まして」見届けるためです。そこにわたしたちの救いがあり、そこにのみ「神の国」へのわたしたちの唯一の「狭い戸口」が開かれてあるからです。
「狭い戸口」。実にそれは、十字架に死に、復活された主イエスご自身です。
見逃し得ないことに、マタイ・マルコ・ルカの三福音書は一致して、主イエスがエルサレムにお入りになられる直前に、盲人の目を開かれたことを伝えています。とくにマルコは、この人の名がバルティマイであったとも伝えています。彼は、主によって目を開いていただいた後、「なお道を進まれるイエスにしたがった」と伝えられています。バルティマイは主によって開かれた目で、エルサレムでの主の十字架とご復活を確かに見届けたに違いありません。
ただし、主イエスがエルサレムにお入りになられる前に、主に目を開いていただかなければならないのは、バルティマイだけではなく、わたしたちすべてでもあるはずです。バルティマイのようにわたしたち一人ひとりも、エルサレムで、主がわたしたちのために成し遂げてくださる救いのみ業の一切、すなわち主の十字架と復活を、この目ではっきり見届けさせていただく必要があるからです。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
わたしたちは、自らの知恵や力で、「神の国」に入ろうとしても、入ることはできません。罪ゆえに閉ざされた目に、「神の国」の「戸口」主イエスは見えません。まず罪によって閉ざされた目を、主ご自身によって開いていただく他ありません。
主イエスによって目を開いていただくとは、主によって罪を赦していただくことです。罪ゆえに閉ざされた目には、主の御姿が見えません。しかし、主によって罪赦された目には、閉ざされていたわたしたちの目を、手ずから開いてくださった「神の国の主」キリスト・十字架とご復活の主の御姿が鮮やかです。この主こそ、「神に国」に入る唯一の「戸口」・「神の国への狭い戸口」です。主において「神の国」が来ているからです。
罪の赦しの中で、「神の国の狭い戸口」である主イエスの御姿がわたしたちの目にはっきりと映し出された時、同時にわたしたちは、「神の国」の戸口が、主によってわたしたちのためにすでに開かれてあることに気付くに違いありません。わたしたちはその時、主において始められている「神の国」の真実の内に、聖霊によってすでに生かされてあることを知らされます。「神の国の狭い戸口」・十字架とご復活の主ご自身が今、わたしたちとともにいてくださるからです。
「狭い戸口から入る。」罪ゆえに閉じていた目を、主イエスによって開いていただき、その開かれた目で主をはっきりと見つめさせていただいた時、わたしたちは主によってすでに「神の国の狭い戸口」の内側にあることを知る。それがミサです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。