司祭の言葉 1/11

主の洗礼 マタイ3:13-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日、わたしたちは「主の公現」を祝いました。その日、クリスマスにユダヤの一隅にお生まれになられた主イエスが、東方の博士に象徴される異邦人を含む全世界の民に、「福音」として「公(おおやけ)」にご自身を現わされました。

「主の公現」に続く今日は、「主の洗礼」を記念いたします。主イエスは、ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立って、民衆とともに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。しかしなぜ、民衆とともになのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスがヨルダン川のヨハネのもとに来て、民衆とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。この洗礼者ヨハネに、「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」

御子キリストが、ここで民衆とともに洗礼を受けられるのが、「正しい」と言われるのは、それが神のみ旨であり、それを通して民衆に対する父なる神のみ業が行われるということです。事実、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」、次の「三つのこと」が、神によってなされたと、今日の福音は伝えていました。

第一に、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、民衆とともに洗礼をお受けになられた主イエスにおいて、「天が開かれた。」民衆に対して。驚くべきことです。罪人、すなわち民衆の大多数に、「天」は閉ざされていたからです。詩編には、「死」を恐れる民衆の呻きのような祈りを多く納めています。彼らが恐れたのは、罪人のままで死ぬことにより、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」ことです。つまり救いの希望が永遠に潰えることです。

例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」

しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、彼らに「天が開かれた」のです。ただ一度にして、かつ永遠に。同時に、「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。天は「聖霊のご聖櫃」だからです。

事実、その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で「キリストの上に降った。」実は、天の父なる神はこの時、民衆とともにある御子キリストに、神のいのち・神ご自身である「わたしの霊を彼(キリスト)の上に置」かれたのです。

なぜなら、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」この神のみことばは、かつて預言者イザヤ(42:1)を通して語られたご自身の次のことばです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」その際、神はご自身のことばを次のように結んでいたのです。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」

父なる神が、「ご自身の霊を御子キリストの上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊である「聖霊」が、民衆と共にある「御子イエス・キリスト」の内にあり、主イエスを通して目に見える形で民衆に生きて働かれるのです。「主イエスの福音宣教」はその始めから、民衆、つまりわたしたちに対する「主イエスにおける父なる神のいのちである聖霊の業」「父・子・聖霊の三位一体の神の業」に他なりません。

主イエスの福音宣教は、天地の創造主、全能の父なる神が、御子キリストに、「聖霊」を注いで、満を持して始められた「三位一体の神の業」です。従って、主の福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけのことではありません。みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちを含めた一切を新たにする、「神の創造の業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「主イエス・キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」の恵みの果実を目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、主イエスにおける「福音の宣教」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/4

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまとともにおられた幼子イエス・キリストを礼拝した後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、クリスマス夜半の礼拝から主の公現の祭日までを、クリスマス(降誕節)の12日間としてお祝いして来ました。クリスマス夜半の礼拝以前のアドベントの期間は、復活祭前の四旬節の期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、クリスマス夜半の礼拝で幼子イエスをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日(本来は1月6日)まで続けられます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、仏教、とくにわたしの学んだ真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神(天)の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法には思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らが母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子イエス・キリストを、彼ら自身の目で見、おそらくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の観念的な知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子イエス・キリスト、まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神(のよう)になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日に、幼子イエスに見たのは、実に「神が人となられた」との真実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を彼らの「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子イエスにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。まったくその逆です。神ご自身が主イエス・キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに与えておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、したがって、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、すでに礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子イエス・キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神キリストを礼拝したはずです。幼子イエスにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子イエスにお会いした後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエス・キリストにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエス・キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めてまったく自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも主によって「神が人となられた」新しい世界にすでに招き入れられています。東方の学者と共にわたしたちも神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「別の道・新しい道」を歩き始めてよいのです

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉2025年1月〜6月

司祭の言葉 2024/6月-12月


司祭の言葉 2026/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日の黙想(ルカ2・16~21)

クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日93歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/28

聖家族 マタイ2:13-15,19-23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マタイによる福音は、ヨセフさまの夢の中に主の天使が現れ、次のように告げたと伝えていました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

ヨセフさまはみ使いのお告げの通り、マリアさまからお生まれになられた幼子に、「イエスと名付け」ました。新約ギリシャ語の「イエス」の名は、ユダヤの言葉ヘブライ語では「ヨシュア」であり、「主は救う」という意味です。ただ、主イエスにおいて、神はどのようにしてわたしたちをお救いくださるのでしょうか。

降誕日夜半のミサでのルカによる福音は、最初のクリスマスに幼子キリストとマリアさま、ヨセフさまの聖家族は、ベツレヘム郊外の荒れ野で「野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたち」の訪問を受けたと伝えていました。

マタイによる福音は、聖家族は、さらに「東方からの占星術の学者たち」の訪問を受けたと伝えます。彼らをベツレヘムまで導いた「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

「ところが」と、後に聖家族の受けるご苦難を、すでに暗示するかのように、マタイは続けます。東方の学者たちは、「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」

事実、今日のマタイによる福音は語り継ぎます。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」

マタイは、主の天使のこのお告げを、預言者ホセアを引用して、「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』(ホセア11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」、と説明していました。

その後、「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。』・・そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰って来た。」

ホセアの預言通りです。同時に、キリストが地上のご生涯の始めに経験されたエジプトからイスラエルの地への過越の内に、後に、十字架の苦しみを経てご復活へと過ぎ越される「主の過越」が暗示されているのではないでしょうか。

イエスの名は、ヘブライ語ではヨシュアであると申しました。旧約でヨシュア(ギリシャ語では、イエス)とは、神がモーセによってお始めになられた神の民の救い、すなわち神の民のエジプトからイスラエルの地への「過越(出エジプト)」のために、モーセと共に働いて神の民をエジプトから導き出し、さらにモーセ亡き後、神の約束されたイスラエルの地に神の民を導き入れた、「旧約の過越」の成就者の名です。

明らかに主イエスのみ名には、旧約のヨシュアが隠されていると思います。神が主イエスと聖家族を、最初にエジプトに導かれたのは、後に彼らを、「エジプトからわたしの子(主イエスと聖家族)を呼び出」されるため、すなわち新しいヨシュアである主イエスによって、新しい神の民である聖家族に、主の十字架と復活による「新約の過越」を成就させることの「しるし」ではなかったでしょうか。

さらにその後聖家族は、「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と、マタイは伝えます。

「ナザレ」という地名は、預言者イザヤが「王であるメシア」を示す「エッサイの株からの一つの若枝」(11:1)、あるいは「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝」(53:2)の「若枝」を意味する語であるとされます。「イエスはナザレの人と呼ばれる。」主イエスこそ、まことの王キリストであるということです。

「聖家族」。それは、キリストご自身によって「神の国」へと確実に導き入れられ、「神の国の主」キリストのみを王として生きる、新しい過越の神の民です。洗礼によってわたしたちが招き入れられたのは、この「聖家族の食卓」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25

主の降誕(日中)ヨハネ1:1-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の御祝福がありますように。

世界各地での戦争の終息が見通せない中でのアドベントの期間、わたしたちは使徒ペトロの言葉を頼りに、主イエスとそのみ国を「神が約束されたゆえに待ち望み」ました(ペトロ2,3:13)。この世にあって確実なものは「神の約束」だけです。そしてクリスマス。主イエスを、母マリアさまを通して、心からの感謝と喜びの内にお迎えします。

わたしが長く奉仕させていただいた英国の教会では、クリスマスの深夜のミサで、司式司祭が幼子キリストの小さな御像を両の掌(たなごころ)に抱いて入堂します。そして、祭壇の前か祭壇脇に置かれた小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟(わら)の上に、そっと幼子キリストの御像を安置してからミサを始めます。

英国での毎年のクリスマス深夜ミサの度に、司祭であるわたしは、生まれて間もない赤ちゃんをわたし自身この手に抱いた時のことを思い出しました。同時に、かつて幼子キリストをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことも。その時、彼が感激のあまり歌わずにはおれなかった歌をルカは伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」

(ルカ2:29-32)

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

主イエスは、わたしたち人間の思いや力を超えた、だからこそ確実な「神の約束ゆえに」、母マリアさまを通してわたしたちのもとに来てくださった神ご自身です。

クリスマスの礼拝で、マリアさまから老シメオンのようにわたしたちもご聖体の内に同じ幼子キリストを両の掌に受け取らせていただき、大切に抱かせていただきます。老シメオンとともに、ご聖体の幼子キリストの内に神の約束の一切を、神の恵みのご計画のすべての成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただきます。

クリスマスのミサで、わたしたちも母マリアさまとともに、マリアさまのように、幼子キリストを小さなご聖体の内に抱かせていただき、見つめさせていただきたいのです。幼子キリストをご自身の胸に抱かれたクリスマスのマリアさまの神への畏れ、驚き、喜びと感動、そして安堵の涙、その聖母さまの心の動き、さらに感謝と祈りの一切を、わたしたちも、今、ここで、マリアさまとともにさせていただきたいのです。

人が神に代わろうとしてきたわたしたち人類の長く空しく倒錯した過去は、ここに終わりました。そのために、本当に多くの人が自らを偽り、自分を失い、さらには多くの人を惑わし、傷つけ、犠牲にしてきた過去は、今、ここに確実に終わりました。

「神が人となられた」今、わたしたちが母マリアさまとともに幼子キリストに見つめているのはこの事実です。かつてのように見知らぬ神とその救いを虚ろに求めて彷徨(さまよ)い続けた時は終わりました。今から後は、クリスマスに神が主イエスにおいて成就された受肉の恵みの事実に立って生きて行けるのです。老シメオンの歌うように、マリアさまとともに、わたしたちも「神の栄光をこの目で見た」からです。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「主イエスにおいて人となられた神の栄光」。それは老シメオンの言葉のように、「神が万民のために整えられた救い、異邦人を照らす光、神の民イスラエルの光栄。」主イエスは人を救い、活かし、人に光栄を与える神のいのち神の栄光とは主イエスにおいてわたしたちに与えられる神の恵み。実は、それは主なる神ご自身です

神はご自身をお与えくださるために人となられた。主イエスとは、そのようにわたしたちにご自身をお与えくださる神ご自身の栄光のお姿です。老シメオンがマリアさまとともに、幼子キリストの内に見つめた神の栄光とは、実は神の自己奉献の事実。それは、わたしたちがミサの度に、ご聖体の内に見つめ味わう神の真実です。

クリスマスから後、主イエスにおいて神の栄光は、さらに輝きを増し加えて行きます。クリスマスの幼子キリストは、栄えて行かれます。十字架、さらにご復活に至るまで。

クリスマスの出来事は、決してクリスマスだけで終わりません。それは、毎日のミサ毎に、ご聖体においてわたしたちに体験され続ける神の恵みの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/24

主の降誕(夜半)ルカ2:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスのご降誕を、その当の夜半に最初にお祝いすることを許されたのは、マリアさまとヨセフさまの他には、貧しい羊飼いたちであったと伝えています。彼らは、マリアさまたちが滞在しておられたユダヤのベツレヘムの地方で、その夜、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」していました。

灼熱の日中とは異なり、夜半には気温が零下にも降ることのあるベツレヘム郊外の荒野。おそらく小さな焚火だけを暖を取る手立てとして、野外で肩を寄せ合うようにして夜通し太陽の昇る朝を待ちわびていたに違いない貧しい羊飼いたち。神は、とくにその彼らを、世界で最初のクリスマス夜半の祝いに招かれました。ルカによる福音は、その時の様子を次のように伝えています。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」

羊飼いたちは恐れました。何を、でしょうか。彼らは神を恐れました。なぜ、でしょうか。町の城壁の外で羊の群れの番をして生活を営む他無い貧しい羊飼いたち。彼らは律法学者が求めるユダヤの律法を守れる境遇にはありませんでした。律法を守ることも、律法に従って神を礼拝する事もできない羊飼いたちを、町の人々は、神の恵みにふさわしくない者たちとして蔑んでいました。羊飼いたち自身も、罪人の彼らにはアドベントは無縁だと思っていたと思います。クリスマスの夜までは。

しかし、神がわたしたちのもとに来られる(アドベント)との決断は、人ではなく神ご自身によることです。使徒ペトロは、わたしたちは神が来られるのを、人の期待や計らいにではなく、「神の約束に従って待ち望んでいる」(2ペトロ3:13)と教えています。

神のみ使いガブリエルは、マリアさまに遣わされた時、驚き恐れるマリアさまに「おめでとう(ギリシャ語kaire、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げました。

み使いが告げたのは、マリアさまが気付かない内に、すでに、神が彼女とともにおられる(インマヌエル)と言う事実です。アドベントとは、この事実への気付きの時です。

実は、クリスマスの遥か以前から、主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださるための神ご自身のご準備が、み使いガブリエルに象徴される旧約の預言者の長い時代を貫いて続けられていたのです。その上で、地上のアドベント(神が来られる)は、母マリアさまが聖霊によって神の御子キリストを宿されることによって、歴史の事実、さらに、後にご聖体を受けるわたしたちの身の事実となりました。

真のアドベント来たり給う神をお迎えすることとは、神への恐れと感謝の内にマリアさまと共に、マリアさまのように、わたしたちもこの身に神の御子を宿させていただくことではないでしょうか。ただしそれは、偏に神の恵みにのみよることです。

アドベントとは、ユダヤの律法学者たちのように、律法を上手に解釈し神との一定の距離を保ちながら、自分の心を自分で操作するようなことではありません。わたしたちにとってアドベントとは、マリアさまのようにこの身をそのまま神に明け渡してしまうことです。神の御子をこの身に宿させていただくとは、そういうことではないでしょうか。律法を読むこともできず、律法を解釈して神と自分の間に距離を置く術も持たない羊飼いたちは、ただ神の恵みによってアドベントへと導かれました。

その羊飼いたちは天使のことばを聞いて、神を「非常に恐れ」ました。彼らは、主なる神が来られたならば、主のみ前に自らを弁護する術もなく、主に自分たちを明け渡してしまう他ないことを良く知っていました。同時に彼らは、自分たちが神のものとされることに堪え得ない罪人であることをも、誰よりも良く知っていました。

だからこそ、み使いは、羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。神が求めておられるのは、マリアさまのように、また彼ら貧しい羊飼いたちのように、真に神を恐れる者たち、神のみを恐れる者たちだからです。「神を恐れる」者にこそ、神はご自身の御子を宿させてくださるのです。さらに、彼らに宿された神の御子によって、彼ら自身を福音の使者、すなわち「民全体に与えられる大きな喜び」の使者とさえしてくださるのです。

畢竟、それは神の天使たちに加わって神を賛美することです。羊飼いたちの見上げる天には、すでにみ使いたちによる神の勝利と歓喜の歌声が響いています。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

クリスマスのこの夜、マリアさまとヨセフさま、また、羊飼いたちのように真に神を恐れるみなさんに主イエスが来てくださいます。「恐れるな」とのおことばを携えて。

クリスマス、おめでとうございます。神の御祝福が皆さんの上にありますように。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 12/21

待降節第4主日 マタイ1:18-24

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と、今日、待降節最後の主日の福音は語り始めていました。

待降節最後の主日を含む降誕日前の八日間(12月17日から24日の「晩の祈り」の時まで)を、アドベント・オクターブと呼びます。その初日12月17日のミサでは、この特別な期間の黙想の主題を示唆して、福音は、マタイ冒頭の「イエス・キリスト」の系図から、旧約は、その系図中とくに、後に神から「イスラエル」の名を与えられる父祖「ヤコブの祝福」の言葉を創世記から朗読しました。

ヤコブは、アブラハムの子であるイサクの子です。彼の名「イスラエル」は、ヤコブが兄エサウとの和解の旅の途上、ヤボク川の渡しで神の天使と闘った時、み使いから、「お前の名はもはやヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。お前は神と闘い、人と闘って勝ったからである」と、言われたことによります。

ここで、「イスラエル」とは「神の勝利者」の意味です。ただし、「神の勝利者」とは、実際は誰のことなのでしょうか。ヤコブは、神の天使との格闘の後、彼自身は「勝利者」ではないことを明らかに自覚して、次のように告白しています。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、まだ命は助かっている。」

事実、ヤコブが闘った神のみ使いは、彼の腿の関節を打ったのみで、彼の命は助けています。神は、この時ヤコブを、たとえ無知とはいえ神の天使と、否、神ご自身と争った彼の罪ゆえに彼を滅ぼすことをなさらなかったばかりか、後にはヤコブを祝福の基(もとい)としてさえお用いになります。(創世記49:1-28)

この不思議な物語を通して、ヤコブのように神を神と弁えず神と争うような愚かなわたしたちに対しても、主なる神は、わたしたちの罪の当然の報いである死に代えて赦しを、さらに、罪赦されたわたしたちを、多くの人に命を与える祝福の基としてさえお用いくださるという神のご意志が示されているのではないでしょうか。

これがヤコブ・イスラエルを含むイエス・キリストの系図が先取りして告知し、主椅子の十字架と復活によってわたしたちすべてに成就される「神の救い」です。アドベント・オクターブは、このように、神の救いの歴史の内に隠され、主によってわたしたち一人ひとりに成就する、神の救いの秘儀を黙想する時です。

さて待降節第4主日の今日、マタイによる福音において、「イエス・キリストの誕生の次第」は次のように語られていました。すなわち、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」その時、困惑していたヨセフの夢に、主の天使が現れ次のように告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」み使いは、その上でさらにヨセフに次のように告げました。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエス(「神の救い」の意)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

注意したいのは、ここで、救い主キリストは、「ご自分の民(すなわちわたしたち)罪から救うと言われます。たんにわたしたちの「罪を赦す」とは言われていません。

先のヤコブの物語が語り示していたのは、主なる神はわたしたちの罪を赦されるだけはなく、さらに、赦されたわたしたちを神の祝福の基としてさえお用いくださるということでした。主イエスは、十字架の苦しみを経て復活の栄光に過ぎ越して行かれるご自身の過ぎ越しに、わたしたちを伴ってくださるのです。

わたしたちの救いは、主イエスの十字架による罪の赦しに終始しません。罪赦されたわたしたちに、さらに主の復活によって成就する神のみ業があります。その全体が「神の救い」(すなわち、「イエス」)です。

続けてマタイによる福音は「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが成就するためであった」と語った上で、今日の第一朗読の預言者イザヤを通して告げられた、主なる神の次のおことばを引用します。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(イザヤ7:14)

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、マリアを迎え入れた」と福音は伝えます。ヨセフさまのように、わたしたちも、母マリアさまを、心を込めてお迎えさせていただきたいと願います。母マリアさまをお迎えする。それが、母マリアさまからお生まれになる御子キリストをお迎えする、ただ一つの道です。

父と子と聖霊の御名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/14

待降節第3主日 マタイ11:2-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節の第3の蝋燭・バラ色の蝋燭が灯されました。教会は、待降節の第3主日を、「喜びの主日」と呼びます。今日の入祭唱のように、「主に在っていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」からです。(フィリピ4:4、5)

先の主日に続き、今主日の福音も、わたしたちに洗礼者ヨハネを想い起こさせます。彼こそ「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」(マタイ3:3)ために、神によって遣わされた人だからです。事実、今日の福音の内に主イエスご自身「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人(すなわちヨハネ)のことだ」と、仰せでした。

ただし、洗礼者ヨハネのことを語る今日の福音が、主イエスがペトロを筆頭とする十二人を弟子として選び使徒としてお立てになられたという出来事の直後、に語られていることは見逃せません。それは「主の道を整える」ために神から遣わされたヨハネこそ主の弟子たちすべてのあるべき姿を示しているから、に違いありません。

その洗礼者ヨハネは、今日の福音においては、すでにヘロデ王によって牢獄に繋がれ、今や、彼には殉教の時が近づいています。ヨハネは死を目前にして、彼自身どうしても主イエスご自身から確認しておきたいことがありました。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。』」 このヨハネの問いに応えて、

「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」

その後ヨハネは、ふたたび主イエスに問うことはありませんでした。彼には、この主のおことばで十分だったからです。

後にマタイによる福音は、洗礼者ヨハネの殉教を語った直後に、主イエスが、「五つのパンと二匹の魚」で五千人の人々を養われた「神の国の食卓」の奇跡を伝えます(マタイ14章)。マタイのこの語り方の順序にも深い意味があるはずです。

主イエスは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられて後、ヨハネの殉教の時まで、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と「神の国」の福音の宣教を続けて来られました。しかし、洗礼者ヨハネの殉教の死を転機として、主は「神の国の到来」を告げるのみならず、「五つのパンと二匹の魚の奇跡」が物語るように、大胆に、ご自身の民を「神の国」すなわち「神の国の食卓」に招き入れることを、お始めになられます。わたしたちは、福音書の語るこの事実を見逃してはならないと思います。

同時にこのことは、主イエスにおいて来たるべき「神の国」の本質をも明らかにしています。すなわち、主の「神の国」は、神のみ前に義しい人である洗礼者ヨハネを悲惨な死に至らせるようなこの世の罪を、ご自身の十字架の犠牲によって負いきることによってのみ打ち建てられる、十字架の主イエス・キリストのみ国です。

主イエスは、洗礼者ヨハネの殉教の死を決して無駄にはされません。洗礼者ヨハネにとって、さらには、洗礼者にならって主に仕えるわたしたち主の弟子すべてにとって、主イエスが「福音」であるとは、このことでもあると思います。

洗礼者ヨハネは殉教の死を前にして、生涯、主イエスを証しする者として生かされた光栄を、心と思いを尽くして、神への感謝の言葉として次のように語ります。

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言った・・・。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜び満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:27-30)

主イエスを宿されたマリアさまのご訪問に、聖霊に満たされた母エリサベトの胎内で「喜びおどった」ヨハネでした(ルカ1:41)。聖霊は、洗礼者ヨハネの命の全ての時を祝福し、彼の殉教の死においては、彼を十字架と復活の主に固く結び合わせてくださいました。ヨハネの命は、彼が愛し、命を注ぎ尽くしてお仕えした十字架とご復活の主ゆえに、死によっても決して終わりません。わたしたちの命も同じです。「主に在っていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4:4-5)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。