司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 
(2023年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越しの祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/13

年間第19主日 マタイ14:22-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の8月6日に、「主イエスの変容」の祭日を祝いました。高い山の上で、神ご自身であられる主イエスの光輝く真実のお姿を目の当たりに拝して、ペトロは、思わず主に、「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」と申し上げました。

わたしたちもまた、このミサで、ペトロとともに主イエスに申し上げます。「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」。なぜなら、今、このミサで、福音とご聖体において、主はわたしたちに神なる主ご自身を現してくださるからです。高い山の上で、ペトロにご自身を示されたと同じ光り輝く主ご自身を。

今日の福音は、この「主イエスの山上の変容」の少し前に起こった出来事です。「5つのパン」で5千人の人々を養われた主の「パンの奇跡」に続く今日の福音は、主が「湖の上を歩かれた」ことを伝えています。「パンの奇跡」と「水上歩行の奇跡」。主のこの二つの奇跡によってペトロは、他の弟子たちとともに、主に、「本当に、あなたは神の子キリストです」と、はっきりと告白し、主を礼拝しました。

まさにその時から、彼らは、主イエスをキリストと告白し生きる信仰と礼拝のまったく新しい命へと召されました。その後、人々の間に、イエスとはいったい何者なのかという議論が起こりました。ある者は、彼を「洗礼者ヨハネ」だと言い、他の者が「エリヤ」だという中で、主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに、ペテロは躊躇せず、「あなたはメシア(ヘブル語、ギリシャ語ではキリスト、生ける神の子です」と答えました。そのペテロに主は仰せになります。

「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17-19)

主イエスの十字架とご復活の後、ペトロは、この主のおことば通りの命を生き、ローマでの殉教の死に至るまで、残された彼の生涯の一切を主に捧げて生き、かつ死んで行きました。そのことは、皆さんよくご存知です。

福音は、主イエスにおいて「神の国」が近づいたこと、むしろ、「神の国の主」である主イエスの在すところに「神の国」が来ているとの事実を宣言しています。これは、主イエス個人にのみ関わることではありません。主イエスおよびわたしたちの現実となった出来事です。主イエスの物語は、わたしたち自身の物語でもあります。

主イエスの奇跡と、弟子たち、さらにわたしたちの回心(主と心が一つにされること)。この二つの出来事が、一つの「神の国」の「事実」を語ります。その時、主と弟子たち、さらに主とわたしたちの間に生起した出来事の前と後において、世界は同じではありません。それが、聖書が証言し、わたしたちが体験している「事実」です。

最早、わたしたちには「パンの奇跡」同様、今日の福音の主イエスの「水上歩行の奇跡」を疑う理由は何もありません。それらの「奇跡」によって、事実、ガリラヤ湖の漁師ペテロと他の弟子たちに、「主イエスをキリスト」と告白し、主の使徒とされ、さらに教会の礎とさえされる、かつての彼らにとっては考えることもできなかったまったく新しい命が与えられたからです。まさに「神の国」の奇跡です。

事実、主イエスの使徒の頭(かしら)であるペトロを「岩」として神の教会が建てられ、事実その後の世界は、今に至るまで教会によって新しくされ続けてきました。そして、わたしたちは現に、使徒の頭ペトロの後継者であるローマ教皇を戴く、主の教会の一員であることによって、わたしたち自身がこの「神の国の奇跡」の証人です。

実に、主イエスの「パンの奇跡」と「水上歩行の奇跡」を疑う理由はわたしたちにはありません。なぜなら、それに優る奇跡を、主はペトロと同様にわたしたちに対しても行うことがおできになることを、わたしたちは知っているからです。事実、主はわたしたちの人生において、あるいはわたしたち自身を用いて、それに勝るとも劣らぬ奇跡を行い続けて来られたことを、教会二千年の歴史は雄弁に物語っています。

今、このミサにおいて、高い山の上でペトロに真実のお姿を示された主イエス・キリストご自身が皆さんにお会いくださいます。お会いくださるだけではありません。今、このミサにおいて、皆さんをペトロのような新しい命に生かすために、主は皆さんに、みことばとご聖体においてご自身そのものをお与えくださいます。

最早これは単なる物語ではありません。皆さんお一人おひとりに、今、現に、ここで起こっている主イエスの「神の国」の出来事です。ミサこそ最大の奇跡です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。