主の洗礼 マタイ3:13-17
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
先の主日、わたしたちは「主の公現」を祝いました。その日、クリスマスにユダヤの一隅にお生まれになられた主イエスが、東方の博士に象徴される異邦人を含む全世界の民に、「福音」として「公(おおやけ)」にご自身を現わされました。
「主の公現」に続く今日は、「主の洗礼」を記念いたします。主イエスは、ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立って、民衆とともに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。しかしなぜ、民衆とともになのでしょうか。
実際、マタイによる福音は、主イエスがヨルダン川のヨハネのもとに来て、民衆とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。この洗礼者ヨハネに、「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」
御子キリストが、ここで民衆とともに洗礼を受けられるのが、「正しい」と言われるのは、それが神のみ旨であり、それを通して民衆に対する父なる神のみ業が行われるということです。事実、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」、次の「三つのこと」が、神によってなされたと、今日の福音は伝えていました。
第一に、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」
第一に、民衆とともに洗礼をお受けになられた主イエスにおいて、「天が開かれた。」民衆に対して。驚くべきことです。罪人、すなわち民衆の大多数に、「天」は閉ざされていたからです。詩編には、「死」を恐れる民衆の呻きのような祈りを多く納めています。彼らが恐れたのは、罪人のままで死ぬことにより、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」ことです。つまり救いの希望が永遠に潰えることです。
例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」
しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、彼らに「天が開かれた」のです。ただ一度にして、かつ永遠に。同時に、「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。天は「聖霊のご聖櫃」だからです。
事実、その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で「キリストの上に降った。」実は、天の父なる神はこの時、民衆とともにある御子キリストに、神のいのち・神ご自身である「わたしの霊を彼(キリスト)の上に置」かれたのです。
なぜなら、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」この神のみことばは、かつて預言者イザヤ(42:1)を通して語られたご自身の次のことばです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」その際、神はご自身のことばを次のように結んでいたのです。『わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」
父なる神が、「ご自身の霊を御子キリストの上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊である「聖霊」が、民衆と共にある「御子イエス・キリスト」の内にあり、主イエスを通して目に見える形で民衆に生きて働かれるのです。「主イエスの福音宣教」はその始めから、民衆、つまりわたしたちに対する「主イエスにおける父なる神のいのちである聖霊の業」・「父・子・聖霊の三位一体の神の業」に他なりません。
主イエスの福音宣教は、天地の創造主、全能の父なる神が、御子キリストに、「聖霊」を注いで、満を持して始められた「三位一体の神の業」です。従って、主の福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけのことではありません。みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちを含めた一切を新たにする、「神の創造の業」です。
ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「主イエス・キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」の恵みの果実を目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、主イエスにおける「福音の宣教」です。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
