司祭の言葉 10/5

年間第27主日 ルカ17:5-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

これは、主イエスの使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と主に願った時に、主が彼らに応えられたおことばです。しかしなぜ、この時使徒たちは、主にとくに「信仰を増してください」と願ったのでしょうか。信仰による御利益のようなことを求めてのことだったのでしょうか。そうではありません。今日の福音の直前に、主は使徒たちに仰せでした。

「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

実は、兄弟を一日に七回、すなわちどこまでも赦すようにとの主イエスのおことばを受けた使徒たちが、主に、「信仰」を願ったのです。そして、それは正しいことでした。兄弟の罪をどこまでも赦すことは、もはやわたしたちの良心、あるいは倫理観や、それに基づくわたしたちの努力の問題ではなく、わたしたちの力を越えて、優れて「信仰」の問題であることに、使徒たちは気付いたに違いないからです。

そのように、主イエスに「信仰」を求めた使徒たちに、主がお応えになられたのが、説教の冒頭に引用した主のおことばでした。「もしあなたがたに・・。」

ところで、「からし種一粒ほどの信仰」との主イエスのおことばから、先に同じルカによる福音(13章)からお聞きした「からし種のたとえ」を想い起こします。主は、「神の国」を「からし種」にたとえて、次のように仰せでした。

「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」

主イエスが語られる「神の国のたとえ」は、わたしたちのただ中で、「神の国の主キリスト」ご自身によってすでに始められている「神の国」の現実と、したがって「神の義」・「神の裁き」の真実と力を明らかにします。罪人であるわたしたちが、罪にもかかわらず主のみ前に生かされてあるのは、ひとえに、主からの「罪の赦し」ゆえです。

そうであれば、わたしたちの兄弟もまた同じく神の「罪の赦し」の恵みの内にあることは明らかです。わたしたちの罪を赦してくださった主イエスへの感謝の内に兄弟の罪をゆるすことは、わたしたちの主への感謝ゆえ、すなわち「信仰」ゆえです。その「信仰」の内に、聖霊によって「神の国」の恵みと力は宿されています。

「神の国」を「からし種」にたとえられた主イエスが、今日、「からし種一粒ほどの信仰」と言われる時、仮に、「信仰」の事実が、余りにも小さな「からし種」のように人の目には見えないとしても、実は、その「信仰」には、偉大な「神の国」の恵みと力とが宿されていることを、主はわたしたちに想い起こさせてくださいます。その時、わたしたちにとって「信仰」とはいかなる事実、なのでしょうか。

「信仰」とは、「インマヌエル、主イエスがこのわたしとともにいてくださる」という神の事実に、頷かせていただくことです。それはそのまま、このわたしを通して、主ご自身が聖霊によって働かれることを認めさせていただくことでもあります。

それゆえ、「信仰」は目には見えなくとも、「神の国」の大きな力を宿しています。「神の国」の主は、信仰の事実・「インマヌエルのキリスト」ご自身だからです。

この「信仰」において、わたしたちは兄弟の罪をどこまでもゆるすことへと導かれます。「からし種」ほどの小さな「信仰」であっても、「信仰」において聖霊が働かれるからです。その時、「聖霊」の内には、わたしたちと兄弟の罪の一切を自らに負い、わたしたちと兄弟の罪を赦し、わたしたちと兄弟を聖霊によって新たにしてくださる、十字架とご復活の主キリストご自身が、活きて働いておられます

兄弟の罪をどこまでもゆるすという最善の業であっても、それが、わたしたちとともにいてくださる主イエスの働き、「信仰」においてわたしたちに働いてくださる「聖霊」の御業であれば、わたしたちが誇るべきものは、わたしたちにおいて聖霊によって働かれる主以外にはありません。わたしたちは「命じられたことをみな果たしたら」、主に心からの感謝をもって、次のように申し上げるだけです。

「わたしどもは、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/2

「守護の天使の祝日」の黙想(10月2日)
(マタイ18:1-5,10)

「あなたたちの天使たちは、天でいつも神のみ顔を仰いでいる」
「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いでいるのである。」

主イエスのこのおことばは、「これらの小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい」との、直前に語られた主のご忠告のおことばに続けて語られています。しかし、主の言われる「小さな者たち」とは、誰のことなのでしょうか。

それは、この地上で、神の他に頼る何ものも持たない人々のことではないでしょうか。そのような人々を、主イエスは、ことの他大切にしてくださいます。その理由は、二つあると思います。一つは、神の他に頼る何ものも持たない人々こそ、神の救いを切に祈り求めているからであり、主はそのような彼らのためにこそ来てくださったからです。加えて、冒頭の主のおことばのように、「彼らの天使たちが、天でいつもわたし(御子キリスト)の天の父のみ顔を仰いでいる」、からです。

「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ前を仰いでいる」とは、彼らの天使たちが、小さな者たち、神の他に頼るべき何ものもない人々のために、彼らの祈りを神に取り次ぎ、また彼らに代って常に神を賛美している、ということでしょう。

しかし、主イエスの仰る「小さな者たち」とは、実は、わたしたちのことではないでしょうか。そのことに気付くなら、冒頭のみことばは、主がわたしたちに、わたしたちの「守護の天使」について、明確にお示しになっておられるおことばに他なりません。

わたしたちの守護の天使が、「天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いで」くださっておられるというのであれば、守護の天使を通して、わたしたちは、すでに天に結び付けていただいていると信じてよいと思います。わたしたちのいのちは、決して地上だけのものではなく、天に結ばれているのです。わたしたちと天の父なる神の間を、取り次ぎの祈りと賛美を以て堅く結びつけてくださっておられる存在こそ、「守護の天使」です。

この「守護の天使」については、わたしたちのミサの「ローマ典文」(「第一奉献文」)の中に、次のような美しいことばで、教会の信仰が言い表されています。

「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。

このささげものをみ使いによって、あなたの栄光に輝く祭壇に運ばせてください。

いま、この祭壇で、御子の聖なるからだと血にあずかるわたしたちが、

天の祝福と恵みで満たされますように。」

パンとぶどう酒の聖別の祈りに続くこの美しい祈りは、ミサにおける主イエスご自身の自己奉献に、ミサに与るわたしたちも自らの奉献をもって加わらせていただくことを神に願い求める、わたしたちローマ教会に伝承されてきた古い祈りです。

この祈りは、わたしたちをみ使いに、すなわち「守護の天使」に委ねています。わたしたちの取り次ぎのために、天の父なる神のみ前にいつも神のみ顔を仰いでくださっておられる守護の天使に、ミサにおいて、天上の父の祭壇から、地上のわたしたちの祭壇にまで降り来たっていただき、わたしたちの捧げもの、即ちわたしたち自身を、天の父なる神の祭壇にまで運び上げていただくことを、祈り願っています。

神への捧げものは聖(きよ)くなければなりません。「守護の天使」は、わたしたちを聖(きよ)めて聖い捧げものとして神に受け入れていただくことができるようにしてくださるはずです。したがって、守護の天使は「聖霊」である、とも言われます。

確かに、「ローマ典文」(「第一奉献文」)の、守護の天使に、わたしたちの捧げものを、天の祭壇に運び上げていただくことを願う祈りは、「第三奉献文」では、「聖霊によってわたしたちがあなたに捧げられた永遠の供え物となり、・・・」と、明らかに、「聖霊」を求める祈りになっています。

そうであれば、守護の天使は、わたしたちを守ってくださるばかりではなく、わたしたちを聖(きよ)くしてくださる方でもあるに違いありません。わたしたちの捧げものの聖さを守ってくださるばかりでなく、わたしたちの捧げものであるわたしたち自身を聖くして、天の神の祭壇に届けてくださいます。守護の天使は、そのようにして、神のみ前に、わたしたちに対する天使としての使命を全うしてくださいます。

そうであれば、守護の天使とは主イエスの聖霊が、主の愛の息吹が姿をとられた方であると言うべきではないでしょうか。また実はその時、守護の天使のお姿の内に、聖霊の注ぎを受けて、主の似姿に変えられて天に招かれる「キリストと共に神の内に隠された」(コロサイ3:3)わたしたち自身の姿もあるのではないでしょうか。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/28

年間第26主日 ルカ16:19-31 

父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

明日9月29日は大天使聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエルの祝日にあたります。わたしの前任地川越教会は、聖ミカエルを守護者・保護者とさせていただいていることから、9月29日に一番近い主日を、特別に聖ミカエル祭として祝っていました。

聖ミカエルの祝日には、個人的な思い出があります。英国の古い学校の一年は、正式には9月29日・聖ミカエルの祝日のミサを以て始められるからです。9月29日から降誕祭・クリスマスまでの学年の最初の学期は、英国では「聖ミカエルの祝日のミサに始まる学期」を意味する “Michael-mas Term”と呼ばれます。

ミカエル。元来ヘブライ語(“ミッカーエール”)のこの大天使の名は、まことに不思議です。それは、通常名前を示す名詞ではなく、実は“疑問文”だからです。日本語に訳せば、「あなたの神はどなたですか。」つまり、「あなたが、生涯お仕えさせていただくべき唯一まことの神はどなたですか」と言う意味の「名前」です。

大天使ミカエルは、存在そのものがわたしたちに対する神の問いかけです。聖ミカエルが遣わされる時、わたしたちはこの神の問いの前に立たしめられるのです。

聖ミカエルの祝日に読まれる福音は、ヨハネによる福音1:47-51です。主イエスは、ご自身を訪ねたフィリポとナタナエルに次のように仰せでした。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)

「神の天使たち」の首位は、「大天使長ミカエル」(ダニエル12:1)です。そうであれば、わたしたちが、「人の子、すなわち主なるキリストの上に、大天使ミカエルが昇り降りするのを見る」時、わたしたちは、文字通り、主のみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰か」との問いかけの前に立つということです。

英国の古い学校は、大天使聖ミカエルの祝日のミサを以て新しい学年を始めると申しました。オクスフォードのような1200年以上前にベネディクト修道会の司祭養成の修道院大学として設立された古い大学の神学生にとって、現在でも主なるキリストのみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰か」という問いかけの前に立つことこそ、修道、すなわち祈りと学びと修練の第一の目的です。実はそれは、神学生である以前に、人が人として生きる、ということであるはずです。

しかし、これは、英国の大学生のみならず、日本のわたしたちにとっても全く同様、むしろ現代の日本のわたしたちにとってこそ、問われるべき最も大切な「問い」ではないでしょうか。わたしたちも、わたしたち自身にとって、わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき「唯一のまことの神」がはっきりしなければ、唯一のまことの神ではあり得ないもの、例えばお金や一時的な権威や権力のような神ならぬものに仕えて、人生を空しく終わってしまうことになりかねないからです。

ところで、極めて象徴的に思われますが、聖ミカエルの祝日に始まる英国の最初の学期は、主イエスの誕生つまりクリスマスに終わると申しました。

クリスマスは不思議です。それは、「本来わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき方(唯一のまことの神)が、わたしたちに生涯をかけて仕えてくださるために、イエスという名前をもつ人として、小さな村の貧しいおとめマリアさまを母としてお生まれくださった」ことを祝います。その主イエスは、十字架の上で、わたしたちにご自身を与え尽くされることにより、奉仕の生涯をまっとうされます。

「あなたにとって、生涯お仕えさせていただく神はどなたですか」との大切な問い、人が人として生きるための最も大切な「問い」は、わたしたちに、降誕祭・クリスマス、すなわち「ご自身のいのちを捧げてわたしたちに仕えてくださった唯一のまことの神、主イエス・キリストの誕生」、をまっ直ぐに指し示しています。

聖ミカエルから大切な「問い」を問われる皆さんお一人おひとりが、皆さんのお心の内に、主イエスをこそ「生涯掛けてお仕えすべき、唯一にしてまことの神」として、心から喜び、感謝してお迎えくださいますように。

大天使聖ミカエルの祝日。わたしたちは、聖ミカエルの名の意味するごとく、主イエスのみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神はどなたですか」との問いかけの前に立っています。わたしたちに、主イエス・キリストを唯一のまことの神、と告白させてくださるのは聖霊のみです。わたしたちが聖霊を求める切なる祈りを、わたしたちの守護者聖ミカエルは必ず取り次いでくださいます

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/21

年間第25主日 ルカ16:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

主イエスは、今日の福音の「不正な管理人のたとえ」と呼ばれてきた「神の国のたとえ」を、このみことばによって結んでおられました。

主イエスが、「たとえ」(para-ballo, para-ble)でわたしたちをご自身とともに「神の国」に誘われることは、すでに見ましたが、今日の「たとえ」も福音である神の国の「たとえ」の一つと聞いて、意外に思われる方がおられるかもしれません。が、そうであることは、今日の福音に続いて今日の「たとえ」を巡ってのファリサイ派の人々と主との対話の中で、主ご自身が明らかにしておられます。

「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされている。」

主イエスが「神の国のたとえ」でお示しになられるのは、ヨハネの時は終わり、今、ここに主において、「神の国」が来ているという事実です。それはわたしたちが、今や「神の国の主」キリストのみ前に立っているという現実でもあります。

今、キリストの前に立つわたしたちはどのような者なのか。今日の主イエスの「不正な管理人のたとえ」で、主人に前に呼び出されて「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言い渡された「不正な管理人」。しかし、これは他人ごとではありません。わたしたちも、主人に呼び出された場合に備えなければなりません。

ただし、自分を取り繕い、きれいごとを言っている暇はありません。わたしたちは、すでに来られた主イエスのみ前に立っているからです。わたしたちには、「不正にまみれた富」を用いてでも、「永遠の住まいに迎え入れてもらう」ために、今、出来ることをする他ありません。ただしかし、わたしたちには「不正にまみれた富」以外に、はたして何か持ち合わせがあるのでしょうか。主は、次のように仰せでした。

「ごく小さな事に忠実な者は大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値のあるものを任せるだろうか。また他人のものについて忠実でなければだれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」

「ごく小さな事」・「不正にまみれた富」・「他人のもの」と、ここで主イエスは、一つのことを、言葉を変えて示されておられるようです。しかし、それはいったい何のことなのでしょうか。実は、それはわたしたち自身のこと、わたしたちの「命」のことではないでしょうか。わたしたちには、本来、「聖(きよ)いいのち」が「正しい富」として、神から託されていたはずです。その「正しい富」を、わたしたちは自分のものであるように勘違いし、粗末に扱い、罪によって汚し、「この世の不正にまみれた富」にして来てしまったのではなかったでしょうか。

今、主イエスのみ前にわたしたちが求められているのは、そのような自らを取り繕うことでも、弁解することでも無いはずです。それは、主のみ前に立っているという自覚のない律法学者たちのしていることです。しかし、主のみ前に立っていることを自覚させられたわたしたちに求められていることは、自らの罪を認め、神からの赦しを求めさせていただくことではないでしょうか。汚してしまったわたしたちの「命」、すなわち「この世の不正にまみれた富」を、聖霊によって再び聖めていただき、主を通して「聖いいのち」・「正しい富」として、ふたたび父なる神に、感謝の捧げものとしてお返しさせていただくことではないでしょうか。

与えられた「いのち」を罪によって汚してしまったわたしたちは、主イエスをこそ切に待ち望んできたのではなかったでしょうか。わたしたちの罪を赦し、聖霊によってわたしたちを聖めることがおできになられる主による他に、人生の解決はどこにも無いからです。今、その主のみ前に、わたしたちは立っています。「神の国のたとえ」の示すこの真実の前に、主がわたしたちに求めておられることはただ一つです。

(神の定めた)時は満ち、神の国は近づいた(今ここに来ている)。悔い改めて(キリストに心を向け)福音(であるキリスト)を信じなさい(キリストに身を委ねなさい)。」

主イエスは、「悔い改めて福音を信じる」わたしたちを、罪によって汚された「不正にまみれた富」から、聖霊によってふたたび神の喜ばれる「正しい富」に変えて、わたしたち自身を受け入れてくださいます。それが、「神の国の福音」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/14

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

「十字架称賛」の祝日 (914) (C年年間第24主日) 

(ヨハネによる福音3:13-17)

過ぐる8月6日に、「主の変容」を記念しました。主イエスは、最期にエルサレムに上られるに先立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、主の服も真っ白に輝きました。さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を聞いた、と福音は伝えていました。

「主の変容」が、主イエスの過越、すなわち主の十字架と復活の40日前であったとのカトリック教会の古い伝承に従い、紀元5世紀以来、8月6日の「主の変容」の祝日の40日後の9月14日に、教会は、「十字架称賛」の祝日を祝い続けて参りました。

「主の変容」が、主イエスの過越の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入るまでの荒野の40年を思い起こさせます。「主の変容」の直後から、主は、弟子たちを伴って、エルサレムに上る最期の旅を始められます。そしてまさに40日後に、弟子たちは、エルサレムで、主の「過越の食卓」(最後の晩餐)に与り、約束の地、すなわち「神の国」に迎え入れられます。

ただしそれは、「主の変容」の前後三度、主イエスが弟子たちに告げられたように、主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。しかも、その「過越の食卓」(最後の晩餐)で、主が弟子たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、「キリストのからだ」であることが、主によって弟子たちにはっきりと示されることになります。

冒頭の主イエスのみことばは、主と二コデモとの長い対話の一部です。ニコデモは、ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし彼は、主が父なる神から遣わされた方であることを確信するに至ったのだと思います。その結果、ある夜、彼は主の許を独り訪ねて来たと、ヨハネによる福音は伝えていました。

この二コデモに、主イエスはご自身の真実を、次のようにはっきりとお語りになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、聖書のみことばの中でも、最も愛され親しまれて来たみことばの一つではないでしょうか。ただし、神がその御ひとり子イエス・キリストを、わたしたち罪人にお与えくださる。それがいかなることなのか。じつは、このみことばの直前に、主イエスは次のように仰せでした。

「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13,14)

「信じる者が皆、永遠の命を得るため」には、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。

モーセに導かれた神の民は、荒野の40年の旅の途上、くり返し罪を犯します。ある時、主なる神はモーセに、罪なる民のために罪の贖いのしるしとして青銅の蛇を作り、十字架のように棒の上にそれを架け、高く上げることをお命じになりました。民はその青銅の蛇を仰いで癒された、と旧約の「民数記」(21章)に伝えられています。

その旧約の犧牲のしるしのように、「人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。ただし、この度の主によるご自身の奉献は、もはや罪の贖いの「しるし」ではありません。わたしたち罪人の「罪の贖いそのもの」として、主はご自身を、十字架の上に高く「上げて」くださるのです。

主イエスの十字架の奉献によってのみ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」ことを赦されます。さらに十字架を通して高く天に上げられた主は、わたしたちに「聖霊」を注いでくださるために復活してくださいます。それは、聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれさせてくださる」(ヨハネ3:3、5-7)ためです。

二コデモにお会いくださった同じ十字架とご復活の主イエスは、わたしたちにも必ずお会いくださいます。二コデモ同様、わたしたちが「一人も滅びないで」、必ず聖霊によって「新たに生まれ、神の国を見る」(ヨハネ3:3)者としてくださるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 9/7

年間第23主日 ルカ14:25-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

先の主日に、主イエスとファリサイ人との食卓の様子からお聞きしました。そこでは、その直前に主が深く嘆かれたエルサレムの傲慢の罪が露わにされていました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

エルサレムは、かつても彼らに「神のことば」を携えて遣わされた「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」して来ました。主イエスは、ご自身のエルサレム入城を控えて、エルサレムが再び、しかも決定的な仕方で、この罪をくり返すことを知っておられます。その時には、実に、人となられた「神のことば」である主ご自身、に対して。

エルサレムの罪。それはひとえに傲慢の罪です。「食卓の主」である主イエスを差し置いて、自分のために食卓の上席を奪い合おうとするエルサレムの人々。主ご自身から「神のことば」の食卓に招かれながらも、「神のことば」である主に聞こうとせず、主を押しのけ、終には主を殺しさえするエルサレム。

「言っておくが、あの招かれた人たちのうちで、わたしの食事を味わう者は、一人もいない。」

これが、ファリサイ人との食卓で、主イエスがお語りになられた最後のおことばでした。主の言われる「わたしの食事」とは、「主の晩餐」すなわちミサでの「主ご自身の御からだと主ご自身の御血」であることは、言うまでもありません。

ルカによる福音において、主イエスがエルサレムにお入りになられる時は、すでに間近に迫っています。エルサレム入城後、主は、過越祭を祝う人々の喧騒を余所に、人知れず、ある家の二階屋で、十二人の弟子たちだけと「最後の晩餐」の食卓を囲まれ、わたしたちにミサを残してくださいました。続いて、主は十字架につけられ犠牲の死を遂げられます。その後数十年を経ずして、エルサレムの神殿は崩壊し、エルサレムの町は滅ぼされます。

「自分の十字架を背負って、キリストに従う。」

今日の福音で、主イエスはこの一つのことを、ご自身の「弟子の条件」としてわたしたちに厳しく求めておられました。それは、主の食卓で自分に上席を求めようとするファリサイ人のような傲慢さとは正反対のことです。主はご自身の弟子たちに、傲慢と虚栄ではなく、主のみ前に自らの罪と弱さを正直に認め、すなわち自らの十字架を負って、主に従おうとする謙遜と誠意を求めておられます。

弟子にとって、そのためには命がけの決意が必要とされるはずです。主イエスの弟子であること、すなわち自らの十字架を自ら負って主に従うことは、片手間に、あるいは趣味や道楽、あるいは偽りの虚栄や教養としてできることではありません。なぜなら、そのことに「永遠の命」がかかっているからです。主は仰せです。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

自らの持てる一切、自らの虚栄や傲慢の一切を捨て、正直に自分の十字架を背負って主イエスに従おうとする者だけが、実は、自分の十字架が自分一人では決して負い切れるものではないこと、そしてそれゆえにこそ、本来このわたしが一人で負うべき十字架を、主が、すでにわたしたちとともに負ってくださっておられるという恵みの事実を、懺悔と感謝とともに知らされるのではないでしょうか。

事実、マタイによる福音は、今日のルカによる福音と同じ主イエスのみことばを伝えた上で(10:38)が、次の主の忘れがたいおことばを伝えてくれています。

「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(すなわち、十字架)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

父と子と聖霊の御名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/31

年間第22主日 ルカ14:1,7-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

今日の福音でこのように仰せになられる直前に、主イエスはエルサレム入城を間近に控えて、神の都でのご自身の苦難と死を、次のように予告しておられました。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」

続けて主イエスはご自身を十字架につけるエルサレムのために深く嘆かれました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

エルサレムは、神の都として建てられました。それは、わたしたちが神を正しく礼拝することができるように、神がご自身の「聖名」をそこに置かれるためです。そうであれば、神の都エルサレムで、主なる神がわたしたちに求められるのはただ一つ。神を神とさせていただくこと。神を畏れ、神のみ前に謙遜であることです。

ただしそれは、偏に「神のみことばに聞くこと」によってのみ与えられる恵みです。

しかしエルサレムは、過去にもくり返し罪を犯して来ました。彼らは「神のことば」に耳を傾けないばかりか、彼らに「神のことば」を携えて遣わされた「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」してさえ来ました。

主イエスは、ご自身のエルサレム入城を控えて、エルサレムが再び、しかも決定的な仕方で、この罪をくり返すことになることをすでに知っておられます。しかもこの度は、人となられた「神のことば」である主ご自身に対して。

主イエスは、エルサレムが「神のことば」である神の御子を十字架にさえつけることになるという、その信じ難い罪ゆえに、エルサレムのために深く嘆かれたのです。

その主イエスのみ前での、にわかには信じ難いような人々の振舞いを、今日のルカによる福音は伝えていました。主がファリサイ派のある議員の家での食事に招待された時のことでした。人々は、主が招待されていることなど忘れ果てたかのように、「上席を選ぼう」と互いに争いあっていました。それをご覧になられた主は「婚宴に招かれた客のたとえ」の後、次のように仰せになられました。

「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれているかもしれない。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。」

これに続けて仰せになられたのが、冒頭に引用した主イエスのおことばです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

主イエスはエルサレムの罪を深く嘆かれました。それは、「神のことばを聞かぬ」罪です。ただしそれは非常に具体的に、「神のことばを携えた預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」罪です。さらにそれは、「受肉した神のことば」である主を、十字架につけることに極まる罪です。

ここに極めて大切なことがあります。「神のことば」に対しては、「聞く」か「聞かない」かというわたしたちの心の持ち様ではなく、神のみ前に、「受肉した神のことば主イエス・キリスト」を「神なる主」として受け入れるか、その主を十字架につけて葬り去るか、のどちらかの選択しか、わたしたちにはないという現実です。

神のことばを拒む。それは、「神のことば」である主イエスを十字架につけることに極まる罪です。それは、ひとえに傲慢の罪です。「神のことば」の教師を自認していたファリサイ人たちのように、神の遣わされた「受肉した神のことば」主イエス・キリストを貶しめ、自分を高く上げようとする罪です。「みことばなる神」に対する実に愚か極まる姿です。ただしそれは果たして他人ごとでしょうか。

しかし、そのようなエルサレムの人々の前で、やがて主イエスが、そして主だけが、神とエルサレムの人々によって、高く上げられる日が確かに来ます。十字架の上で。主イエスのエルサレム入城の時が近づいています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/24

年間第21主日 ルカ13:22-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かっておられた。」すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と、主イエスに問いかけた人がいました。主は、この問いに応えて弟子たちを含めた一同に仰せになられました。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

今日の福音の主イエスご自身のおことばは、罪ゆえに焦点を失っていたわたしたちの目を、「狭い戸口」である主に焦点を合わせるようにと導いてくれます。

ただし、主イエスはどこへの「狭い戸口」なのでしょうか。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」との問いを受けて、主イエスが続けて語られた「たとえ」において、「救われる」と言うことを、主ご自身が「神の国に入る」、あるいは「神の国で宴会の席に着く」と、言いかえておられます。

そうであれば、主イエスは「神の国」への「狭い戸口」であることが明らかです。

ルカによる福音では、今日のみことばに先立ち、主イエスはエルサレム入城に備えて、「ご自身の時」が近づいていることを弟子たちにお告げになられた上で、「目を覚ましていなさい」と仰せになっておられました。

それは、エルサレムで主イエスが成し遂げてくださる一切、すなわち主の十字架とご復活「目を覚まして」見届けるためです。そこにわたしたちの救いがあり、そこにのみ「神の国」へのわたしたちの唯一の「狭い戸口」が開かれてあるからです。

「狭い戸口」。実にそれは、十字架に死に、復活された主イエスご自身です。

見逃し得ないことに、マタイ・マルコ・ルカの三福音書は一致して、主イエスがエルサレムにお入りになられる直前に、盲人の目を開かれたことを伝えています。とくにマルコは、この人の名がバルティマイであったとも伝えています。彼は、主によって目を開いていただいた後、「なお道を進まれるイエスにしたがった」と伝えられています。バルティマイは主によって開かれた目で、エルサレムでの主の十字架とご復活を確かに見届けたに違いありません。

ただし、主イエスがエルサレムにお入りになられる前に、主に目を開いていただかなければならないのは、バルティマイだけではなく、わたしたちすべてでもあるはずです。バルティマイのようにわたしたち一人ひとりも、エルサレムで、主がわたしたちのために成し遂げてくださる救いのみ業の一切、すなわち主の十字架と復活を、この目ではっきり見届けさせていただく必要があるからです。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」 

わたしたちは、自らの知恵や力で、「神の国」に入ろうとしても、入ることはできません。罪ゆえに閉ざされた目に、「神の国」の「戸口」主イエスは見えません。まず罪によって閉ざされた目を、主ご自身によって開いていただく他ありません。

主イエスによって目を開いていただくとは、主によって罪を赦していただくことです。罪ゆえに閉ざされた目には、主の御姿が見えません。しかし、主によって罪赦された目には、閉ざされていたわたしたちの目を、手ずから開いてくださった「神の国の主」キリスト・十字架とご復活の主の御姿が鮮やかです。この主こそ、「神に国」に入る唯一の「戸口」・「神の国への狭い戸口」です。主において「神の国」が来ているからです。

罪の赦しの中で、「神の国の狭い戸口」である主イエスの御姿がわたしたちの目にはっきりと映し出された時、同時にわたしたちは、「神の国」の戸口が、主によってわたしたちのためにすでに開かれてあることに気付くに違いありません。わたしたちはその時、主において始められている「神の国」の真実の内に、聖霊によってすでに生かされてあることを知らされます。「神の国の狭い戸口」・十字架とご復活の主ご自身が今、わたしたちとともにいてくださるからです。

「狭い戸口から入る。」罪ゆえに閉じていた目を、主イエスによって開いていただき、その開かれた目で主をはっきりと見つめさせていただいた時、わたしたちは主によってすでに「神の国の狭い戸口」の内側にあることを知る。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/17

年間第20主日 ルカ12:49-53

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスがエルサレムに向かわれる最後の旅に伴わせていただいています。今日の福音は、ガリラヤを発ってヨルダン川沿いにエルサレムを目指して南下する旅も、すでに半ば近くに差し掛かろうとする頃のことです。

主イエスは、これまでにも弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることを、くり返しお語りになって来られました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22、さらに9:44)

先の主日に、主イエスが弟子たちに勧告された「目を覚ましていなさい」とのおことばをお聞かせいただきました。さらに主は、今日の福音のみことばに続けて、「時を見分ける目」を持つようにとわたしたちに厳しくお求めになられます。そのような中で、今日のルカによる福音は、主の次のおことばを伝えていました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

続けて主イエスは、次のようにも仰せでした。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」主の実に厳しいおことばは、この後さらに続きます。

この主イエスのおことばを、どのように聞かせていただけばよいのでしょうか。

ここで「火」といわれるのは、旧約以来「神の裁き」を意味します。罪なるものを焼き尽くす「神の裁きの火」です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」神の御子・罪のない主イエスは、それゆえ「罪を裁くことがおできになる唯一の主」として、天の父なる神から地のわたしたちに遣わされました。

なぜ、父なる神は、罪人であるわたしたちに御子キリストを「地上に火を投じるために」すなわち「裁き主」として遣わされたのでしょうか。かつてソドムやゴモラの人々のようにわたしたちを、罪ゆえに神の怒りの火によって焼き尽くすためでしょうか。

主イエスは、「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰せでした。主のこのおことばは、後のゲッセマネの園での主の祈りのおことばを思い起こさせます。そこで主は、次のように祈られました。

「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「この杯」とは、先の「神の裁きの火」と同じく、「神の裁きの杯」です。罪に対する神の激しい憤りです。当然それは、罪人であるわたしたちが飲み干すべきものです。しかし、本来罪人であるわたしたちが飲み干すべき神の裁きの「杯」を、驚くべきことに父なる神は、わたしたち罪人に代って御子キリストに飲み干すことを求められたと、ゲッセマネで主は神のみ旨を明らかにされました。

事実、主イエスは、「神の怒りの杯」を飲み干すために十字架におつきになられます。

今日の福音で、御子キリストは、父なる神のみ旨をそのまま主ご自身のご決意として、お語りになっておられたのでした。主は仰せでした。

「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

罪なきゆえに罪人を裁くことがおできになる唯一の裁き主イエス・キリスト。主は罪の裁きの一切を、罪人であるわたしたちに代って裁き主であるご自身に求めてくださる。十字架において。今日の『ヘブライ人への手紙』が証している通りです。

「イエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

神の裁きがわたしたちの救いとなる。しかしそれは、「神の怒りの火」をご自身に受け、「神の怒りの杯」を飲み干される主イエスの十字架無しには成就しません。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 (2025年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。