司祭の言葉 12/7

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父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節の第2の蝋燭に火が灯りました。主イエスの使徒ペトロは、待降節のわたしたちは、(すなわち、救い主キリスト)の宿る新しい天と地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」と教えています(2ペトロ3:13)。

そのわたしたちに、洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国(すなわち、約束されていた義である主キリストの宿る新しい天と地)は近づいた」と、今日の福音の内に、待降節(アドベントad-ventつまり、神の到来)を高らかに告げています。

その洗礼者ヨハネを、福音記者マタイは、旧約の預言者イザヤのことばを引いて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」「荒野で叫ぶ者の声」であると紹介していました(イザヤ40:3a)。このようにして、マタイはわたしたちに、先の言葉に続くイザヤの預言の次の言葉を思い起こさせます。すなわち、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ40:3b,4)

主なる神が近づいて来られる。「来るべき神をお迎えするために、荒野に広い道を準備しなさい。そのために、高い山は削り、深い谷は埋めなさい。険しく狭い道があれば、広く平らにしなさい」と、神は、預言者イザヤを通してわたしたちに求めておられます。神にお会いさせていただくためです。

しかし、神はなぜこのように仰せになられるのでしょうか。わたしたちが、天地の創造主、全能の父なる神にお会いさせていただくためには、わたしたち一人ひとりに高い山を上り、深い谷を下って行く努力が求められてしかるべきではないでしょうか。実は、神は、預言者イザヤを通して、その理由を次のようにお告げになられます。

「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(すなわち、わたしたちのすべて)は共に見る。」(イザや40:5)

神がお会いになることを求めておられるのは、高い山に自力で上ることができる者たち、あるいは低い谷を自らの足で下りきることができる者たちだけではありません。そのような優れた者たち、つまりわたしたちの内の選ばれた者たち、限られた者たちだけではなく、「肉なる者」すなわち「わたしたちのすべて」が、「共に」神に見(まみ)えることができるようにと、神は強く願っておられるのです。

ここで「わたしたちのすべてが共に」と言う以上、「弱い者」、「貧しい者」、「小さい者」など、自力では高い山に上ることも、深い谷を下ることもできない者たちが、その中に含まれていなければなりません。むしろ、神に助けていただくこと無しには生きて行くことができない彼らこそ、神にお会いさせていただかなくてはならないはずです。しかし彼らとは、実はわたしたち自身のことではないでしょうか。

そのようにして神にお会いさせていただいた者すべてに、神はイザヤを通して、「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神」(イザヤ40:9c、10a)と、わたしたちの周りの多くの人々にも、主なる神を示し、救いを告げ知らせることを求めておられます。

わたしたちにとって、生涯かけて礼拝し、お仕えさせていただく神、真に畏れるべき唯一人の神にお会いさせていただくことこそ、真の救いです。もし、わたしたちが真の神にお会いできないならば、神ならぬあらゆるものに手を合わせて拝む人生を送る他ありません。また、真に畏れるべき神が不明ならば、神以外のすべてのもの、すなわち恐れる必要のないものすべてを恐れて生きる他無いでしょう。まことの救いとは、そのような悲惨な人生から解放されることではないでしょうか。

待降節(ad-vent)は、このようにして洗礼者ヨハネに励まされ、降誕日(Christ-Mass)に「わたしたちのすべてが共に」「神の栄光を仰ぎ見」させていただくために祈り備えるための大切な時です。

わたしたちは、ヨハネが彼の命をかけて指し示した「聖霊と火で洗礼をお授け下さる」主イエス・キリストが来られるのを切に待ち望んでいます。「その日」、主は、わたしたちのみ前にお立ちくださるだけではありません。主は、ご聖体においてわたしたちの内にまで来てくださいます。主は、ご聖体の内に、主の霊・聖霊としてわたしたちの内に働かれ、わたしたちすべてをご自身の似姿に変えてくださいます。実は、ミサこそ当にその時です。

主イエスは、わたしたちにご自身のいのちを与え、聖霊によって新たにするご聖体の秘跡となってくだるために、受肉し人となってくださいます。待降節の間、わたしたちが待ち望むのは、この主のご降誕です。「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(わたしたちのすべて)は共に見る。」それが主とわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/8

無原罪の聖マリア ルカ1:26-38

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

今日12月8日は「無原罪の聖マリア」の祝日です。「聖マリアの無原罪の御宿り」の祝日とも呼ばれて来ました。聖なる御子キリストの母として御子を宿されるご聖櫃とされるために、天地創造の初めから父なる神によって選ばれておられたマリアさま。聖母さまは、父なる神からの聖なるご委託ゆえに、神からの特別な恵みにより、当然ながら存在の初めから原罪のあらゆる汚れをまぬかれておられました。今日の祝日は、聖母さまのこの神的事実に、畏れをもって敬意と感謝をささげる日です。

ご聖体における御子キリストご自身のご現存に信仰において与るわたしたちにとって、御子のご聖櫃である「無原罪の聖マリア」の信仰は、古来、聖アタナシオや聖アウグスティヌスを始め教会教父方によって告白された「至聖なる聖マリア」の信仰として受け継がれて来ました。この信仰の伝統に基き、1854年ピオ9世教皇により「無原罪の聖マリア」「聖マリアの無原罪の御宿り」の信仰が改めてカトリックの教義として確認され、12月8日が祝日と定められました。このことをご自身がお喜びの内に確証されるように、1858年にフランス・ルルドで聖ベルナデッタにご出現になったマリアさまは、ご自分を「無原罪の御宿り」と紹介されました。先の聖ベネディクト16世教皇は、この祝日を「聖母の最も美しい祝日の一つ」とされています。

聖アタナシオが、聖母マリアさまを、「キリストにからだをお与えくださった方」(神の母聖マリア祭日読書課)とお呼びしておられるように、聖母さま無しにはわたしたちには受けるべき「キリストの御からだ」は無く、したがってご聖体の祭儀であるミサ聖祭を祝うことができません。わたしたちにとって、ご聖体におけるキリストの聖なるご現存を感謝し祝うカトリックの信仰は、「無原罪の聖母マリアさま」の存在無しには成り立たず、したがって聖母さまを欠いては、ご聖体の内に働かれる聖霊によるわたしたちの聖化、つまりわたしたちの「御子による救いのわざ」は成就しません。

それゆえ「聖なる教会は、神の母聖マリアを、御子の救いのわざから切り離すことのできないほどのきずなで結ばれた方として、特別の愛を込めて敬」ってきました(「典礼憲章」103)。神の救いのわざにおいて御子キリストと聖母さまを切り離すことができないゆえに、教会の暦では、主なるキリストの神秘に合わせて必ず聖母さまを感謝し記念させていただいて来ました。降誕日にマリアさまを母としてお迎えさせていただく御子キリストを待ち望む待降節中の今日、わたしたちが祝う「無原罪の聖マリア」「聖マリアの無原罪の御宿り」の祝日も、そのひとつの大切な機会です。

その今日、わたしたちが第一に心に留めさせていただきたいのは、冒頭に申し上げたように、聖母マリアさまこそ、主なる御子キリストの誕生のために、無原罪の内にあらかじめ神に選ばれ、御身をもって主をお迎えされる待降節を準備され、御子を宿されるご聖櫃としてご自身を神に捧げ、祈りと御身をもって主とわたしたちのために、降誕節(クリスマス)を成就してくださった方であられたという事実です。

このように、聖母マリアさまによって、旧約の時代、つまり人類の創造以来、目に見ることがゆるされなかった神ご自身が、今、聖母さまを母として、つまり母なるマリアさまから御からだをいただいた御子キリストとして、わたしたちの目に見える方となってくださいました。この人知を超えた聖なる神のみ業にお仕えされるために、「無原罪の聖マリアさま」として、聖母さまはあらゆる罪や汚れから守られたのです。

また、「無原罪の聖母さま」「聖母さまの無原罪の御宿り」を今日祝う教会は、聖母マリアさまへの感謝と同時に、聖母さまのように、聖霊に満たされた汚れもしみもない教会の喜ばしい誕生をも心を込めて祈り願い準備します。教会もまた、聖母マリアさまを母として、聖霊によって聖なる主キリストの花嫁として生まれるからです。

今日のルカによる福音は、天使ガブリエルによる聖母マリアさまへのお告げのことばです。「喜びなさい、恵まれた方よ。主はあなたとともにおられます。」この父なる神からのおことばは聖母マリアさまによって受肉し、御子キリストにおいて人となられる主なる神は、聖霊においてわたしたちの歴史を創造します。「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む。」

「無原罪の聖マリア」。見えない神が、マリアさまを母としてお生まれになられる御子キリストにおいて見える方となられる。聖母マリアさまは、神が創造し、神が支配されるわたしたち人類の歴史において最も大いなる出来事にお仕えくださるために選び、守られたのです。そして、その一切の業は活ける神の聖霊によるものです。

「聖霊があなた(聖母さま)に臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・神には、何一つおできないことはない。」

「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

この時が始めではありません。聖母マリアさまは、神へのこのお応えが、実は聖母さまがその母アンナさまに宿られたその存在の始めからのお応えであることを、聖霊の御守りと御導きの内に、ご自身すでに良く知っておられたに違いありません。

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/30

待降節第1主日 マタイ24:37-44

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節第一主日。待降節から始まる教会の暦で今年はA年。福音は、おもにマタイによる福音からお聞きいたします。ルカとは語り方は異なりますが、マタイも福音の冒頭に、主イエスのご降誕に関わる人知を超えた不思議な出来事を語ります。

マタイやルカが主イエスのご降誕の出来事を物語る福音の冒頭で、しかし、ヨハネは福音の冒頭で、旧約『創世記』冒頭の神のことばをわたしたちに想起させます。「神は言われた。『光あれ。』」(創世記1:3)。神の天地創造の始めを語る旧約の神の「光あれ」とのみことばを受けて、新約のヨハネによる福音は巻頭で、その光はキリストであると、明確に宣言しています(ヨハネ1:4)。

ヨハネはさらに続けて、「光は闇の内に輝いている。そして闇は光に勝たなかった」(ヨハネ:1,5)と語り継ぎます。確かに、闇は光に勝つことはありません。なぜなら、闇がいかに深く、如何に重くとも、また、闇の支配が永遠に続きそうに思えても、「一燭の光」が灯されれば、その瞬間に闇は終わるからです

待降節は、祭色の「紫」が示すように、祈りを整えて主イエスのご降誕に備える慎みの時です。ただ、日本語で「待降節」(わたしたちを主語に、主のご降誕を待つ時)と訳すラテン語Adventus(英語でAdvent)は、元来、主イエスが主語で、「主が来られる」という意味です。使徒ペトロが、「キリストは、神ご自身の確かな約束に従って来られる」(ペテロ第2、3:13)と教える通り、必ず主が来られるのです。だからわたしたちは主を待つのです。喜びと期待の中にも謙遜と神への畏れの内に祈りを整えて。

待降節第一主日に相応しく、今日の福音で、主イエスは「目を覚ましていなさい」と仰せでした。これは、マタイによる福音の第23章の終りから25章までに伝えられる主の「終末預言」と言われるおことばの一節です。主は、わたしたちに「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである」と、仰せになっておられます。

聖書において「終末(パルーシア」とは、たんに「世の終わり」を意味しません。神の遣わされる救い主キリストによって、天地の創造主、歴史の支配者である天の父なる神が決定的な仕方で、かつ目に見えるお姿で歴史に介入され、神のみ心が行われる時のことです。すなわち、「終末」とは、主イエスが来られる時、に他なりません。

したがって、「終末」とは、主イエスによる「古い時の終わり」であるとともに、主による「新しい時の始め」でもあります。「終末」という「神の時」の中心に立っておられるのは、主イエスです。「目を覚ましていなさい」。なぜなら、わたしたちは、この主を、決して見失ってはならないからです。

確かにマタイの伝える主イエスの「終末預言」の中で、主は天変地異や戦争などの「大きな苦難」に触れておられます。これに触発されてか、2011年3月の東日本大震災以来、日本各地での相次ぐ災害や自然の異変、いよいよ安定感を欠く東アジアを含む国際情勢全般、すでに三年におよぶロシアによる主権国家ウクライナ侵攻に加えて、ガザにおける戦乱と、「終末の徴」を巡っての巷の議論は尽きません。

ただし、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の終わりではない」と、主イエスはっきり仰せの上で、ご自身の「終末預言」を「栄光の王なるキリストの(十字架上での)即位」を語る「主の来臨」の約束によって結んでおられます(マタイ25:31-46)。

「目を覚ましていなさい」との主イエスのみことばは、わたしたちにゲッセマネの主を思い起こさせます。世を徹して祈られる主は、傍で眠り込む弟子たちに仰せでした。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」

「目を覚ましていなさい。」それは、「いつも目を覚まして祈る」ためです。事実、ルカによる福音では、「終末預言」の結びに、主イエスは、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と仰せです。主の「過ぎ越し」すなわち、ご自身の十字架とご復活を以て古い時を終わらせ、新しい時を始めてくださる「終末」の主の証人とさせていただくために、「いつも目を覚まして祈りなさい」。

「主の時」が近づいています。待降節は、降誕日にベツレヘムで聖母マリアさまからお生まれになる救い主キリストを、わたしたちの祈りを整えて待つ大切な時です。

待降節第一主日の今日この日に灯された待降節第一の蝋燭が示す「キリストの光」を見つめ続けてください。「闇は光に勝てない」とのヨハネのメッセージを胸に、さらに二本、三本、四本と毎主日ごとに待降節の蝋燭に火を灯し続け、世界をキリストの光で満たしつつ、主イエスのご降誕の日を待ち望みましょう。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/23

王であるキリスト(年間第34主日)ルカ23:35-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

これは、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と主イエスに願った一人の罪人への、十字架上の主のおことばです。

今日、待降節直前の主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。来主日から始まる四週間の待降節を経て、クリスマス(降誕日)にお迎えする主イエス・キリストこそ、父なる神の御独り子であり、わたしたち「すべて」の王であられることを、待降節を控えてあらかじめ深く心に刻み込ませていただくためです。

ただし、わたしたち「すべて」の王キリストは、人知れぬナザレの村の貧しいおとめを母としてお生まれになります。しかも、「王であるキリスト」を祝う今日の福音は、主イエスの十字架の犠牲の死を語ります。まことの神イエス・キリストは、わたしたち「すべて」の王となってくださるために、十字架の上で即位されるからです。

しかし、それはなぜでしょうか。「王であるキリスト」の祭日の今日は、わたしたちにとって、神のこの秘義について黙想させていただく時です。

ところで、聖書において「王」は、神によって油注がれ、神と神の民のために、神から託される二つの使命に、正しく奉仕することが期待されています。一つは、わたしたち神の民「すべて」にパンとブドウ酒、つまり命の糧を保証することです。もう一つの使命は、わたしたち神の民「すべて」に、汚れの無いパンとブドウ酒を捧げての主なる神への奉献の礼拝を、まっとうさせる責任を負うことです。

時が満ち、父なる神は御子キリストを「まことの王」としてわたしたちにお与えくださいます。それは、父なる神が歴代の地上の王に託して、しかし果たされることがなかった上の二つの務めを、御子キリストにおいてまっとうしてくださるためです。

そのために、父なる神は、御子キリストをナザレの貧しいおとめを母として、わたしたちにお与えくださいました。そのようにして、神は主イエス・キリストによって、わたしたちの内で「最も貧しい者の一人」となってくださいました。それ以外に、主なる神ご自身がわたしたち「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。

そのことは、主イエスにおいて非常に具体的な事実でした。主は、人知れぬ寒村で、貧しさの中に生を受け、幼少時より厳しい生活と激しい労働に耐え、苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣き、長じて後の「神の国」の宣教のご生涯においても、家のない旅の生活の困難や辛苦を味わい尽くされました。

わたしたち「すべて」の王となられるために、ご生涯を通してわたしたちの内の「最も貧しい者の一人」となってくださった父なる神の御子キリスト。主はその上さらに、今日の福音が伝えるように、ご自身に「十字架上の戴冠式」を求められたのです。

それは主イエスご自身のからだが裂かれ、血が流されることによってのみまっとうされる王なるキリストの即位式です。なぜでしょうか。主が王として民の最も貧しい者の生活と思いを知ってくださるだけで十分ではないでしょうか。

実は、今日の福音が語る「主イエス・キリストの十字架上の即位式」すなわち十字架における主の自己奉献無しには、冒頭に指摘した、神が「王」に託される第二の使命、すなわちわたしたち「すべて」に、パンとブドウ酒を捧げての神への奉献の礼拝を、真にまっとうさせることは不可能だからです。聖なる神への相応しい唯一の捧げものは、汚れの無い永遠のいのちのパンとブドウ酒、すなわちまことの王キリストご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

それだけではありません。「王」の第一の使命である、わたしたち「すべて」に、いのちの糧であるパンとブドウ酒を保証すること。実際にはこのことも、主イエス・キリストの十字架上のご自身のご奉献無しには不可能です。なぜなら、父なる神が御子キリストにおいてわたしたち「すべて」にお与えくださろうとなさるのは、わたしたちのこの世の命を支えるだけのパンとブドウ酒ではありません。実は、わたしたち「すべて」に永遠のいのちを与えるまことのパンとまことの飲み物です。これも、まことの王キリストにとって、ご自分の御からだと御血以外には無いからです。

「王であるキリスト」の祭日の今日、わたしたちはこの唯一の王キリストを礼拝します。そして十字架においてわたしたちすべての王となってくださるこの同じ方を、来週からの待降節の後、わたしたちは、ベツレヘムに聖母マリアさまからお生まれになる「幼子」としてお迎えいたします。それが、主イエスとわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/16

年間第33主日 ルカ21:5-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

翌主日は待降節前主日。教会歴の一年の締め括りの翌主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。主イエスの御降誕に備える待降節に入る直前の主日に、クリスマスに聖母マリアさまの胸に幼子としてお迎えする神の子キリストこそ、わたしたちの真の王、唯一の主であることを深く心に刻ませていただくためです。

ただし、「王であるキリスト」を祝う主日に読まれる福音は、主イエスの十字架の犠牲の死を語ります。まことの神である主イエス・キリストは、わたしたちの唯一の王となってくださるために、十字架上で王として即位されるからです。(ルカ23:35-43)

主イエスはそのために、すでにエルサレムにお入りになっておられます。今日の福音は、ご自身の十字架を間近に控えての、主の「終末の予告」の冒頭の部分です。主の終末の予告全体は、エルサレムの神殿の崩壊の予告に始まり、神の都エルサレム全体の滅亡の予告を経て、栄光の王キリストの来臨の予告をもって結ばれます。

主イエスの「終末の予告」は、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話しているとイエスは言われた」ことを契機に語りだされています。主は彼らに仰せです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、(エルサレム神殿の)一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

天の父なる神は、地上にご自分の「聖名」を置かれるために、人に神殿を建てることを許されました。その神殿を中心に建設された町がエルサレムです。そうであれば、エルサレムに住むことを許される主の民に、主なる神がお求めになられることはただ一つです。それは、主の民が、主がご自身の「聖名」を置かれた神殿に集い、主の「聖名」を、すなわち主なる神を賛美・礼拝させていただくことです。

地上に、主なる神がご自身の「聖名」を置かれる。それは、いかなることなのでしょうか。それは、主ご自身がそこでわたしたちにみことばを語り、祈りをお聞きくださるということです。そのようにして、主がわたしたちにお会いくださる。主のみことばに聞き、祈ることによってわたしたちは主にお会いさせていただけるのです。

しかし、神の「聖名」が置かれた町で、人々はこれまでいかに振舞って来たのでしょうか。主イエスはエルサレムにお入りになる前に、次のように嘆いておられました。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

神殿がいかに素晴らしくとも、人の手で造られた神殿がわたしたちを救う訳ではありません。神殿の内に主なる神が置かれた「聖名」において、神がわたしたちにお語りになる「神のことば」によって、すなわち、神によってわたしたちは救われるのです。エルサレムの人々は神殿を誇っても、「神のことば」に聞こうとしませんでした。それどころか、彼らは、「神のことば」を携えた「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」。彼らが、時を置かずに「神のことば」ご自身である主イエスをさえ十字架に付けることになることを、主はすでにご存知です。

確かに、主イエスが今日の福音で「予告」された通り神殿は崩壊し、「神のことば」に聞かぬエルサレムの町は滅亡します。罪によって滅びゆくエルサレムで、しかし罪にもかかわらず、滅ぶことをお望みにならないわたしたち罪人のために、実に十字架上で、主イエスは「まことの王」・「栄光の主」として即位されるのです。

ヨハネによる福音も、エルサレムの神殿崩壊を示唆する主イエスのおことばを伝えています。主がエルサレム神殿から両替人等を追い出された際に、主に抗議したユダヤ人たちに主は応えて、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」と仰せでした。彼らが主に、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と詰め寄った時、福音は次のように告げます。

「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスのことばを信じた。」(ヨハネ2:21,22)

神の「聖名」「神のみことば」なる主イエスは、わたしたちに十字架のご自身のからだをもってまことの「神殿」とし、復活の主ご自身をもって、聖霊によって神なる主とわたしたちとの出会いを、今ここに成就してくださるのです。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/9

ラテラン教会の献堂 ヨハネ2:13-22

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日、ローマのラテラン教会の献堂を記念しています。ラテラン大聖堂は、使徒ペトロの後継者であるローマ司教(教皇)の「司教座」聖堂として、320年頃、ローマ皇帝コンスタンティヌスによって献堂されました。当初は「救世主(キリスト)大聖堂」と名付けられたラテラン教会は、「ローマ司教座」の特別な重要性から、「ローマと世界のすべての教会の母であり頭」と呼ばれて来ました。

コンスタンティヌス大帝こそ、313年のミラノ勅令によって教会を公認・保護し、長く続いたローマ帝国による教会の迫害に終止符を打たれた方です。後に、紀元380年には皇帝テオドシウス1世により、カトリック教会はローマ帝国の国教とされます。その際のカトリック教会とは、ローマ司教を「信仰の保護者」とする、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレキサンドリア、そしてエルサレムの五大司教区の全体のこととされていました。

コンスタンティヌス大帝は、キリストの十二使徒の頭・聖ペトロの殉教の記念として、同じローマに、聖人の墓所を覆うようにして聖ペトロ大聖堂をも献堂していますが、14世紀初めの教皇のアビニヨン捕囚までは、ラテラン大聖堂が、聖ペトロの後継者としてのローマ司教(教皇)の「司教座」聖堂であると共に、「使徒座」聖堂としての機能を果たしていました。その後1377年の教皇のローマへの帰還の後は、ラテラン教会に代えて、聖ペトロ大聖堂が、特に「使徒座」聖堂とされ、教会一致の目に見える中心として現在に至っています。

今日の祝日は、五大司教区中ローマ司教区の祝日として長く西欧でのみ祝われていましたが、16世紀以降、世界に広がったローマ典礼の全教区によって、「ローマ司教」である教皇との一致と親愛の徴として祝われるようになりました。

さて、今日の福音は、キリストの「宮清め」の出来事と呼ばれてきました。ヨハネによる福音は、主イエスの宣教の始めに、この出来事を伝えています。しかし、同じ出来事をマタイ、マルコとルカの福音は、聖週間のこととしています。

マタイ等は、宮清めの時、主イエスは「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とのイザヤの書からのことばをお語りになられたと伝えています(マタイ21:13)。今日のヨハネによる福音は、同じ時、主イエスは、エルサレムの神殿を「わたしの父の家」とお呼びになられたこと、さらに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」と仰せになられたと伝えています。

ヨハネによる福音は、この主イエスのおことばに続けて、「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのこと」であり、そのことを、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこういわれたのを思い出し、聖書とイエスの語られたことばとを信じた」との説明を加えています。

ラテラン大聖堂は、時のローマ皇帝によって、使徒ペトロの歴代の後継者であるローマ司教(教皇)の「司教座及び使徒座」大聖堂として献堂されました。このことの教会史、否、人類史における意義の重大さは、改めて申し上げるまでもありません。但し、復活のキリストのからだである教会を、主イエスご自身が「岩」と呼ばれた使徒ペトロの上に建てられるのは、あくまで主ご自身です。

主イエスは、「あなたはメシア、生ける神の子です」との使徒ペトロの告白に応えて、次のようにはっきりと約束されました。(マタイ16:16-18)「シモン(ペトロ)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ(「岩」)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」

そうであれば、主イエスご自身によって、「岩」なるペトロの上に建てられた主ご自身のからだである教会の内に働かれるのは、主のみことばと、みことばをわたしたちに恵みとして実を結ばせてくださる聖霊に他なりません。

その時、教会は、正しく、「祈りの家」と呼ばれます。「祈り」こそ、神とわたしたちを結び合わせてくださる聖霊の働きの見える姿、その働きの実りだからです。「祈り」は、ご自身をわたしたちにお与えくださる奉献の主イエス・キリストご自身であり、聖霊によって働き、わたしたちに実を結ぶ神のみことばです。

主イエスは仰せになられました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」

教会は「祈りの家」。「祈り」そのものである主の家。この祈りの家で、キリストによって、神のみことばと聖霊の恵みに満たされます。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/2

死者の日 ヨハネ6:37-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

11月1日の「諸聖人の祭日」に続いて、「死者の日」と呼ばれる11月2日は、英国では「諸聖徒の日」(Holy souls)と呼ばれます。日本では、洗礼を受けずに亡くなった方々に配慮して「死者の日」とされたのだと思いますが、この日は「諸聖徒の日」と呼ばれる方が、教会の暦には相応しいと思います。

「諸聖人」あるいは「諸聖徒」の「聖」とは、如何なることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、教会で列聖された「聖人」を含めて、広く「聖徒」とは、彼自身聖なる特別な人と言うよりも、神によって「聖くされた人」、つまり「キリストのものとされた人」のことであるに違いありません。

「父がわたしにお与えになる人は皆わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:37-39)

ここで、主イエスが「ご自分のものとされた人」、つまり、主によって「聖とされた人」について、主ご自身は、それは「父がわたしにお与えになった人」と仰っておられるだけです。

主イエスは、わたしたちの中で、特に聖い人たち、正しい人たちを、主が選ばれたとは言われていません。「天の父なる神が、子なる神キリストに託された人たち」を、主は、ご自分のものとする、「聖」とする、と言われるだけです。

すなわち、「諸聖徒」とは、天の父なる神から主イエスに託され、主によって「聖」とされた人たちのことです。そうであれば、感謝すべきことに、これはわたしたちすべてにも、信仰によって開かれている恵みではないでしょうか。

「諸聖徒」方は、主イエスによって「聖とされた人々」です。彼らについて、主は先のおことばに続いて、さらに、次のように仰せになっておられます。

(わたしの父の)御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39-40)

主イエスのみことばは、単なる慰めや約束の言葉では決してありません。神が聖霊によって成就される恵みの事実です。神のみことばは、聞くわたしたちに、今ここで、聖霊によって働く力であり、事実です。神のみことばは、聞くわたしたちをして聖霊によって「聖とする力」、すなわち「主のものとしてくださる力」です。主は、わたしたちにみことばをくださる時、みことばとともに必ず聖霊をくださいます。これがカトリックの信仰です。ここにわたしたちの希望があります。

そして、この聖霊なる神こそ、元来わたしたちに、「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。しかもこの聖霊こそ、みことばとともに働いて洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、さらにミサにおいてわたしたちの捧げるパンとブドウ酒を主イエス・キリストご自身の御からだと御血、つまり主ご自身のいのちとしてわたしたちにお与えくださる方、に他なりません。

主イエスは、わたしたちにみことばを与えてくださるだけではありません。みことばとともに、主はわたしたちに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働き、主のみことばをわたしたちの内に結ばせてくださいます。これが、主のみことばと聖霊の力、すなわち、福音の力です。

11月1日にわたしたちが記念した「諸聖人」方に続いて、今日記念している天にあるわたしたちの信仰の先達である「諸聖徒」方。彼らは、主イエスによって「聖」とされた方々です。主によって、祝福のみことばとともに聖霊を受けた方々です。聖霊によって、主のみことばが、彼らのいのちそのものとされた方々です。彼らは、聖霊によって、神と人とに対する祝福とされた方々です。

諸聖人方とともに諸聖徒方は、天のみ国にあって、愛と感謝を以って、ひたすらに主イエスを褒め、とこしえに主を称え賛美しておられると、教会は信じて来ました。わたしたちの主への愛と賛美は、地上において制約されたわたしたちの主への思いを遥かに超えて、天においてこそ全うされるに違いありません。諸聖人・諸聖徒方は、このことをすでによく知っておられる方々であるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/26

年間第30主日 ルカ18:9-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音の「神の国のたとえ」は、「ファリサイ人と徴税人のたとえ」と呼ばれています。主イエスはこのたとえを特に、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」話された、と福音は伝えていました。

今日の福音の直前に語られた「やもめと裁判官のたとえ」を通して、主イエスは、「神の国」を待ち望む者たちに「気を落とさずに絶えず祈る」ように励ましてくださいました。なぜなら「神は速やかに裁いてくださる」、と主は仰せでした。

「神の国が来ますように」と祈ることは、「神の正しさ、すなわち神の義が行われること」を祈り願うことです。それは、「神の国の主・裁き主キリストが来ますように」と祈ることに他なりません。ファリサイ人は「神の国」を求めると言いつつ、「神の国の主」キリストと、主によってこそもたらされる「神の正しさ」を求めていなかったのです。ここに、彼らの問題の深刻さがあります。

仮に、ファリサイ人たちが、「神の国」を熱心に祈り求めたがゆえに、主イエスにお会いし、主こそ彼らが待ち望んできた「神の国の主」であると知り、主のみ前に立つことを心から畏れたのであれば、彼らは今日の「たとえ」で、主から「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」と言われることはなかったはずです。

しかし、神殿での祈りの最中に、自らの「正しさ」を神のみ前に誇り、返す刀で他人を裁きさえするファリサイ人の傲慢を描く、今日の主の「たとえ」。それは、たんにファリサイ人の他人に対する傲慢に留まらず、主なる神・義なるキリストに対する救われ難い傲慢であることを示唆して余りがあります。

今日のたとえで主イエスは、「言っておくが、(神によって)(正しい者)とされて家に帰ったのは、(遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と願った)この徴税人であって、(自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下した)ファリサイ派の人ではない」と、はっきりと仰せになっておられました。

人を「義(正しい者)」とすることがおできになるのは、神のみです。人は自らの知恵や力で自らを「義(正しい者)」とすることは出来ません。そうであれば、人が神のみ前に「義(正しい者)」とされるために、神が求められることは、他人と比べて自らの「正しさ」を誇ることではあり得ず、神のみ前に謙遜であることです。主イエスは、今日のたとえを次のみことばで結んでおられます。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

福音は、今日の「たとえ」に続けて子供を祝福する主イエスを伝えます。その際、主は子供を祝福されながら、次のように仰せになられたと伝えられています。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

神のみ前に謙遜であること。それは、「子供のように神の国を受け入れること」です。子供のように、主イエスを信頼し、主に自らを全面的に委ねることです。「義(正しい)」とされるために、主がわたしたちにお求めになられるただ一つのことは、主を心から信頼し、謙遜に自らを主に委ねさせていただくことです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 主イエスのこのみことばは、同じくルカによる福音の伝える「マリアの賛歌」の中の聖母マリアさまのおことばを、皆さんに想い起こさせるのではないでしょうか。

「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、・・身分の低い者を高く上げ」と、神を賛美するマリアさまは、直前に次のように語っておられました。

「主のみ名は尊く、その憐れみは代代に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

「主を畏れる者」に「偉大なことをなさってくださった」「力ある神」。

「神の御母」は、御子キリストに「はしため」としてお仕えになられました。聖母マリアさまのご生涯は、心から主を畏れ、信仰によって主イエスにご自身を委ね切り、謙遜の限りを尽くされての主への献身と賛美でした。マリアさまの子であるわたしたちも、母マリアさまと同じく「神を畏れる者」へと召されています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/19

年間第29主日 ルカ18:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

今日の福音の「神の国のたとえ」は「やもめと裁判官のたとえ」と呼ばれてきました。主イエスはこの「たとえ」を、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに語られた」と福音は語り始めていました。

「気を落とさずに、何を、絶えず祈らなければならない」のでしょうか。主イエスの「たとえ」で、「やもめ」が昼夜を問わず「裁判官」に「気を落とさずに絶えず求め」続けたのは、「正しい裁き」・「正義」です。その「やもめ」の願いに「不正な裁判官」さえ心を動かされ、彼女のために「正しい裁き」を行います。

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

「神が裁きを行われる」。今日の「神の国のたとえ」で、主イエスはわたしたちに「神の裁き」・「神の義」を「気を落とさずに絶えず祈る」よう教えておられます。それが「神の国」を待ち望むということです。主はこのたとえの直前に、ファリサイ人の「神の国はいつ来るのか」との問いに応えて、次のように仰せでした。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20,21)

「神の国が来る」とは、主なる神がわたしたちに対して「神の裁き」を行い、「神の義」を全うされることです。それは、「ここ」や「あそこ」というような問題ではなく、「あなたがたの間」、すなわち「誰が、誰に対して」と言う問題です。「神の国」とは、「神の国の主」キリストとわたしたちとの「間」に起こる出来事です。

しかしファリサイ人たちは、このことに気付いていなかったように思われてなりません。彼らの「神の国」の問いに応えて、主イエスは続けて仰せでした。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子(すなわち主)もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

ここで、主イエスは「人の子」、すなわち主ご自身に起こることを語っておられます。それはそのまま、主ご自身とファリサイ人たちとの「間」に起こる事実以外の何事でもありません。「神の国」、したがって「神の裁き」・「神の義」の問題は、実に、主と、主を十字架に付ける者たちとの「間」の事柄です。

彼らだけではありません。主イエスはここで、ご自身にわたしたちすべての罪と苦難の一切、わたしたちの「裁きの一切を負われる」ことによって、わたしたちの「裁き主」となられることをもはっきりとお示しになっておられます。「裁き主」キリストご自身の十字架において、「神の国」は来り、「神の裁き」・「神の義」は成るからです。

「神の国はいつ来るのか」と主イエスに尋ねたように、ファリサイ人たちも「神の国」を絶えず祈っていました。しかし後に、彼らは「神の国の主」キリストを十字架に付けることになります。なぜ、そのような事になってしまったのでしょうか。

彼らは、「神の裁き」すなわち「神の義」と「神の国」とを、全く別に考えていたのでしょう。彼らが祈った「神の国」とは、実は彼らの願いの成就であり、「神の裁き」・「神の義」の成就ではなかったのです。「神の国の主」・「裁き主」キリストのみ前に「悔い改め」、彼ら自身が主イエスによって新たにされることではなかったのです。その彼らには、主はむしろ邪魔な存在になってしまったのです。

主イエスは、マタイの伝える「山上の説教」の中で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と仰せでした。ファリサイ人たちも、主のこのみことばを聞いていたはずです。しかし、わたしたちにとって、これは他人ごとでしょうか。

ご自身に「裁きの一切を受ける」ことによって、すなわち、ご自身の十字架においてわたしたち罪人の「裁き主」となられる主イエス。ここに「神の義」が成就されるのです。この主によってのみ、「神の国」は来るのです。主は仰せです。

「言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/12

年間第28主日 ルカ17:11-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 主イエスは、重い皮膚病から癒されたサマリア人にこのように仰せになりました。

この出来事を伝える今日の福音は、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と語り始めていました。「サマリアとガリラヤの間」とは、当時ユダヤ人が忌み嫌ったデカポリスと呼ばれていた地域の一部で、彼らがエルサレムに上る際には避けて通った土地でした。したがってエルサレムに向かう最後の旅の途上、主イエスは意図的にその地をお通りになられたのは明らかです。

実はそこは、ユダヤの村々から忌避され追放された、重い病を患った人々が多く住みついていた地域でもありました。その地域のある村で、主イエスは、当時、病の中でも人々に最も忌み嫌われた重い皮膚病を患っていた10人の人々の「出迎え」を受けられました。ただし彼らは、主のもとに駆け寄ることをせず、「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、わたしたちを憐れんでください』」と主に叫び求めた、と福音は伝えていました。

主イエスはその彼らの許に行き、彼らが重い皮膚病を患っているのを見、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とお命じになりました。当時その病を患っている人々は汚れているとみなされており、病が癒されるまでユダヤの村に入ることは律法によって禁じられていました。そして、彼らの病の癒しの確認、したがって彼らのユダヤの村への帰還の許可は、祭司たちの判断に委ねられていました。

彼らが、主イエスのおことばに従って祭司たちを訪ねようとした道の「途中で(彼らは)清くされた」、つまり、重い皮膚病から癒されました。その後、彼ら「10人の中の一人」が、「大声で神を賛美しながら、(主の許に)戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」、と福音は伝えていました。

ただし、その人はユダヤ人ではなく、彼らから異邦人と蔑まれていたサマリア人でした。実はその当時、異邦人の間にもイスラエルの神を信じ、エルサレムの神殿に詣で、主を礼拝する多くの人々がいました。そのためエルサレム神殿の中に、彼らのために「異邦人の庭」と呼ばれる場所が用意されていました。このサマリア人もそのような異邦人の一人だったのでしょう。彼が、病癒されてユダヤの地に入ることを切に願ったのもひとえに神殿に詣でたいがゆえであったと思います。

サマリア人の彼は、まことの神をひたすら求めながらも、異邦人の彼が神の恵みをいただくのは決して当然のことではないと思っていたと思います。その彼にとって、主イエスによって救われた喜びはひとしおであったに違いありません。主は、「清くされたのは10人ではなかったか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」と言われた上で、そのサマリア人に仰せでした。

「立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ルカによる福音は、「あなたの信仰があなたを救った」との主イエスの同じおことばを、後にも伝えています。それは、主がエルサレムに入られる直前のエリコの町で、「目が見えるようになりたいのです」との盲目の人の求めに応えて、主が彼の目を開いてくださった時のことです。主は、この人に言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ18:42)ただしこの時、主はこの盲人の目を誰に向けて開かれたのでしょうか。

エリコの盲目の人のように、重い皮膚病を患っていたサマリア人も、ユダヤ人から異邦人と蔑まれながらも、目に見えない神を信じ、その神によって救われることを祈り願い、待ち望んでいた長い年月があったと思います。主イエスは、彼の祈りに応えて、彼の目を神なる主ご自身に向けて開かれたのです。彼のために、ユダヤ人が避けて通る「ガリラヤとサマリアの間」を通ることまでされて。

その時、この異邦人は、彼を訪ねてくださった主イエスの内に、救い主なる真にして唯一の神にお会いしたのです。目に見えない神に対する彼の「信仰」によって、今や、まことの神なる主キリストご自身に向けて彼の「目が開かれた」のです。

「信仰」とは、漠然と神の存在を信じているということではありません。「信仰」とは、わたしたちの「目」が主イエスに対して開かれることです。主を真にして救い主なる神として、わたしたちの目にはっきりと見させていただくこと。つまり、「信仰」とは、主イエスに出会わせていただくことです。むしろ、神なる主がわたしたちにお会いくださることです。それは「聖霊」の働きです。「信仰」とは、聖霊におけるご復活の主イエス・キリストとの出会いです。ミサこそ、わたしたちの「信仰」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。