司祭の言葉 8/24

年間第21主日 ルカ13:22-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かっておられた。」すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と、主イエスに問いかけた人がいました。主は、この問いに応えて弟子たちを含めた一同に仰せになられました。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

今日の福音の主イエスご自身のおことばは、罪ゆえに焦点を失っていたわたしたちの目を、「狭い戸口」である主に焦点を合わせるようにと導いてくれます。

ただし、主イエスはどこへの「狭い戸口」なのでしょうか。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」との問いを受けて、主イエスが続けて語られた「たとえ」において、「救われる」と言うことを、主ご自身が「神の国に入る」、あるいは「神の国で宴会の席に着く」と、言いかえておられます。

そうであれば、主イエスは「神の国」への「狭い戸口」であることが明らかです。

ルカによる福音では、今日のみことばに先立ち、主イエスはエルサレム入城に備えて、「ご自身の時」が近づいていることを弟子たちにお告げになられた上で、「目を覚ましていなさい」と仰せになっておられました。

それは、エルサレムで主イエスが成し遂げてくださる一切、すなわち主の十字架とご復活「目を覚まして」見届けるためです。そこにわたしたちの救いがあり、そこにのみ「神の国」へのわたしたちの唯一の「狭い戸口」が開かれてあるからです。

「狭い戸口」。実にそれは、十字架に死に、復活された主イエスご自身です。

見逃し得ないことに、マタイ・マルコ・ルカの三福音書は一致して、主イエスがエルサレムにお入りになられる直前に、盲人の目を開かれたことを伝えています。とくにマルコは、この人の名がバルティマイであったとも伝えています。彼は、主によって目を開いていただいた後、「なお道を進まれるイエスにしたがった」と伝えられています。バルティマイは主によって開かれた目で、エルサレムでの主の十字架とご復活を確かに見届けたに違いありません。

ただし、主イエスがエルサレムにお入りになられる前に、主に目を開いていただかなければならないのは、バルティマイだけではなく、わたしたちすべてでもあるはずです。バルティマイのようにわたしたち一人ひとりも、エルサレムで、主がわたしたちのために成し遂げてくださる救いのみ業の一切、すなわち主の十字架と復活を、この目ではっきり見届けさせていただく必要があるからです。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」 

わたしたちは、自らの知恵や力で、「神の国」に入ろうとしても、入ることはできません。罪ゆえに閉ざされた目に、「神の国」の「戸口」主イエスは見えません。まず罪によって閉ざされた目を、主ご自身によって開いていただく他ありません。

主イエスによって目を開いていただくとは、主によって罪を赦していただくことです。罪ゆえに閉ざされた目には、主の御姿が見えません。しかし、主によって罪赦された目には、閉ざされていたわたしたちの目を、手ずから開いてくださった「神の国の主」キリスト・十字架とご復活の主の御姿が鮮やかです。この主こそ、「神に国」に入る唯一の「戸口」・「神の国への狭い戸口」です。主において「神の国」が来ているからです。

罪の赦しの中で、「神の国の狭い戸口」である主イエスの御姿がわたしたちの目にはっきりと映し出された時、同時にわたしたちは、「神の国」の戸口が、主によってわたしたちのためにすでに開かれてあることに気付くに違いありません。わたしたちはその時、主において始められている「神の国」の真実の内に、聖霊によってすでに生かされてあることを知らされます。「神の国の狭い戸口」・十字架とご復活の主ご自身が今、わたしたちとともにいてくださるからです。

「狭い戸口から入る。」罪ゆえに閉じていた目を、主イエスによって開いていただき、その開かれた目で主をはっきりと見つめさせていただいた時、わたしたちは主によってすでに「神の国の狭い戸口」の内側にあることを知る。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/17

年間第20主日 ルカ12:49-53

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスがエルサレムに向かわれる最後の旅に伴わせていただいています。今日の福音は、ガリラヤを発ってヨルダン川沿いにエルサレムを目指して南下する旅も、すでに半ば近くに差し掛かろうとする頃のことです。

主イエスは、これまでにも弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることを、くり返しお語りになって来られました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22、さらに9:44)

先の主日に、主イエスが弟子たちに勧告された「目を覚ましていなさい」とのおことばをお聞かせいただきました。さらに主は、今日の福音のみことばに続けて、「時を見分ける目」を持つようにとわたしたちに厳しくお求めになられます。そのような中で、今日のルカによる福音は、主の次のおことばを伝えていました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

続けて主イエスは、次のようにも仰せでした。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」主の実に厳しいおことばは、この後さらに続きます。

この主イエスのおことばを、どのように聞かせていただけばよいのでしょうか。

ここで「火」といわれるのは、旧約以来「神の裁き」を意味します。罪なるものを焼き尽くす「神の裁きの火」です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」神の御子・罪のない主イエスは、それゆえ「罪を裁くことがおできになる唯一の主」として、天の父なる神から地のわたしたちに遣わされました。

なぜ、父なる神は、罪人であるわたしたちに御子キリストを「地上に火を投じるために」すなわち「裁き主」として遣わされたのでしょうか。かつてソドムやゴモラの人々のようにわたしたちを、罪ゆえに神の怒りの火によって焼き尽くすためでしょうか。

主イエスは、「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰せでした。主のこのおことばは、後のゲッセマネの園での主の祈りのおことばを思い起こさせます。そこで主は、次のように祈られました。

「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「この杯」とは、先の「神の裁きの火」と同じく、「神の裁きの杯」です。罪に対する神の激しい憤りです。当然それは、罪人であるわたしたちが飲み干すべきものです。しかし、本来罪人であるわたしたちが飲み干すべき神の裁きの「杯」を、驚くべきことに父なる神は、わたしたち罪人に代って御子キリストに飲み干すことを求められたと、ゲッセマネで主は神のみ旨を明らかにされました。

事実、主イエスは、「神の怒りの杯」を飲み干すために十字架におつきになられます。

今日の福音で、御子キリストは、父なる神のみ旨をそのまま主ご自身のご決意として、お語りになっておられたのでした。主は仰せでした。

「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

罪なきゆえに罪人を裁くことがおできになる唯一の裁き主イエス・キリスト。主は罪の裁きの一切を、罪人であるわたしたちに代って裁き主であるご自身に求めてくださる。十字架において。今日の『ヘブライ人への手紙』が証している通りです。

「イエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

神の裁きがわたしたちの救いとなる。しかしそれは、「神の怒りの火」をご自身に受け、「神の怒りの杯」を飲み干される主イエスの十字架無しには成就しません。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 (2025年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/10

年間第19主日 ルカ12:32-48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「腰に帯びをしめ、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

主イエスが、弟子たちとともにエルサレムを目指して上られる旅も、すでに半ば近くになります。主は弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることへと心を向けるようにと、すでにくり返し求めて来られました。今日も、主は弟子たちに仰せです。

「目を覚ましていなさい。」

しもべが目を覚まして、主人の帰りを待つ。常識的には、それは、しもべが主人を迎えて、直ぐに主人の足を洗い、主人のために食卓を整え、給仕するためでしょう。しかし、驚くべき事にその逆であると、主イエスは、次のように続けておられました。

「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

これこそ、わたしたちがまったく予期しなかった主イエスのおことばではないでしょうか。しかし、わたしたちは知っています。「その時が来る」と、主は、事実、このおことば通りにしてくださる。それが、「主の最後の晩餐」そしてミサです。

「その時」、主イエスはしもべであるわたしたちに、大切な客人をもてなす時のように、「帯を締めて」わたしたち一人ひとりの足をご自身で洗ってくださいます。

その後、主イエスはわたしたちを食事の席に着かせ(ルカ22:19,20)、

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯もおなじようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

「その時」、主イエスはわたしたちに、パンとブドウ酒の相(すがた)で、ご自身の「御からだと御血」、すなわちご自身のいのちをお与えくださいます。そして、このことは、ミサの度にわたしたちのためにくり返されます。世の終わりまで。

「目を覚ましていなさい。」

それは、主イエスが「その時」、わたしたちのために成し遂げてくださる一切のことを、わたしたちが決して見逃さすことのないためです。

「目を覚ましていなさい。」このおことばは、さらに、わたしたちに、「主の晩餐」に続くゲッセマネの園での主イエスのお姿をも想い起こさせるのではないでしょうか。「その時」、主は弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられた後、次のように仰せでした。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マルコ14:32-34)

「主と共に、目を覚ましている。」それは、主イエスとともに祈らせていただくためです。ほかでもないわたしたちの救いのために、夜を徹して祈られる主ご自身の祈りに、わたしたちを招いてくださるためです。「その時」、主は「地面にひれ伏し」「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と、次のように祈られます。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

この後、時を置かずに、主イエスは父なる神の「御心」に従い、わたしたち罪人に代って、神の怒りの「杯」を飲み干されます。それが主の十字架です。

「主の時」が近づいています。それは、わたしたちにとっては「救いの時」です。しかし、主イエスとっては、「十字架におつきになられる時」であることを、わたしたちは、忘れてはなりません。時は近い。「目を覚ましていなさい」とお命じになられる主はわたしたちに、次のようにはっきりと約束しておられました。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン

司祭の言葉 8/6

主の変容 ルカ9:28b-36

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

ルカによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」(9:10-17)の後、主は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)と弟子たちに告げられたおことばを伝えた後、続けて、今日の「主の変容」を伝えています。

このように語ることによって、ルカによる福音は、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、続く主の十字架の死と復活の告示、さらに「主の変容」、この三つの出来事が、主が神の御子キリスト、神ご自身であられることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示してくれています。

主イエスの「山上の変容」。ルカによる福音は、その日、「イエスは、ペトロ、ヨハネおよびヤコブを連れて、祈るために高い山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」(9:28-30)と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」「雲の中からの声」すなわち「父なる神の声」(9:34、35)を聞いたとルカは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、天の御父とともに御子キリストは、ペトロたちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活される方が、実は父なる神の御子キリスト、神ご自身であられることを、御子ご自身の光輝く父なる神のお姿への変容および「神ご自身の声」を以て、予めはっきりとお示しになられました。

ところで、マタイやマルコは、モーセとエリヤの二人が「イエスと語りあっていた」内容を伝えていませんが、ルカによる福音は次のように教えてくれています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(9:31)

「最期」と訳された言葉は「過越」(エクソドス)という字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越」つまり主の十字架と復活のことであったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「主の過越」つまり「主ご自身の十字架と復活」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、ご自身の「山上の変容」の前および後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を繰り返して弟子たちに予告しておられたのです(ルカ9:22、9:44)。

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架におつきになられる。「主イエスの山上の変容」と「主の過越・主の十字架と復活の予告」が相俟って、ここに驚くべき神の救いの秘義が明らかにされました。

「主の変容」は、ルカによる福音では、直前に語られた「パンの奇跡」の物語によって、主イエスの「過越の食卓」つまり「神の国の食卓」とも結びつけられています。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちとともにエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、主ご自身との「最後の晩餐」すなわち「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれはわたしたちにとって、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、じつは「キリストのからだと血」であることが、ミサの度に主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/3

年間第18主日 ルカ12:13-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日に、主イエスから主ご自身の祈りである「主の祈り」をいただきました。その際主は、「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」と仰せでした。「主の祈り」は、「聖霊」を求め、聖霊に導かれて祈る祈りです。使徒パウロは、「祈りと聖霊」について、次のように教えていました(ローマ8:26,27)。

「『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、『霊』の思いが何であるかを知っておられます。『霊』は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

神のみ旨を知り、わたしたちの弱さも知る「聖霊」は、わたしたちの内に働いて「どう祈るべきかを知らない」わたしたちを、「言葉に表せないうめきを以て」「神の御心に従って執り成してくださる。」このように「聖霊」はわたしたちに、神に真に祈り求めるべき事は何かを教えてくださいます。ただし、それは何なのでしょうか。

それは、「神の国」に他なりません。事実、「主の祈り」において、わたしたちが「聖霊」によって最初に導かれる祈りこそ、「神の国」を求める祈りでした。すなわち、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」

実はルカは今日の福音に続けて、マタイによる福音同様、主イエスが弟子たちに「主の祈り」をお与えくださった時、次のように仰せでした(マタイ6:31-33)。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

「ただ、神の国を求めなさい。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

主イエスは弟子たちに、聖霊に導かれて「神の国」を求める「主の祈り」をお与えになられた後、今日のルカの福音のように、「神の国」そのものを、多くの「たとえ」を用いて語り示し続けて行かれます。

主イエスの「たとえ」。それは「神の国のたとえ」と呼ばれます。しかし、主の「神の国のたとえ」には仏教のお経が、「浄土」の荘厳と「浄土の主」阿弥陀仏の姿を克明に描くようには、「神の国」の様子も、「神の国の主」のお姿も語られることがありません。なぜでしょうか。

その必要が無いからです。「神の国の主」キリストご自身が、今ここで、福音とご聖体において、わたしたちに直接お語りになっておられるからです。そして「神の国の主」キリストがいますところに、「神の国」はすでに始まっています。「神の国のたとえ」で主イエスがお示しになられるのは、わたしたちのただ中に始められた主ご自身におけるこの驚くべき「神の国」の事実と「神の国」の力です。

今日の「愚かな金持ちのたとえ」が示すように、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われる「神の国の主」キリストのみ前に、したがって「神の国」の真実と現実の内に、主イエスを迎えたわたしたちはすでに立っているのです。

主イエスは仰せでした。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」なぜなら「わたしたちの命はキリストと共にある」からです。第2朗読の『コロサイへの教会への手紙』で使徒パウロは次のように語っていました。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

わたしたちは、すでに「神の国の主」キリストをお迎えした「時」の内にあります。これは、真に喜び、かつ畏れるべきことです。天地創造以来、人はこの「時」を満たされる唯一の方であるキリストを切に待ち望んできました。その時、その方の許にあってのみ、人は「神の国」に新しく生まれるからです。今、「神の国のたとえ」の示す真実の前に主イエスがわたしたちに求めておられることはただ一つです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/26

年間第17主日 ルカ11:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスはわたしたちに、主ご自身の祈りである「主の祈り」をお授けになり、わたしたちを主ととともに祈る光栄へとお招きくださいました。使徒パウロは、「祈り」について、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、聖霊自らが、言葉に表せないgうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8:26)と教えています。

そうであれば、主イエスからいただいた「主の祈り」を祈ること、それは「うめきをもってわたしたちを神に執り成してくださる聖霊」を求めさせていただくことではないでしょうか。

「主の祈り」は、古来、とりわけミサの中で大切に祈られて来ました。しかも、「主の祈り」は『感謝の典礼』の中心の『奉献文(聖変化)』の直後、「ご聖体拝領」に極まるキリストとの『交わりの儀』の冒頭に祈られてきました。明らかに「主の祈り」はご聖体におけるキリストのご現存のもとで、「ご聖体の拝領」を目指して祈られています

「ご聖体」を拝領することは、ご復活のキリストのいのち、すなわち生ける主イエスご自身をわたしたちのいのちとしていただくことです。それは、活ける主のいのちである「聖霊」を、わたしたちが受けることに他なりません。この「聖霊」を求める祈りとして、主のみことばにしたがって、ミサの中で「主の祈り」は祈られて来ました。

「主イエスのみことばにしたがって、聖霊を求めさせていただく」と申しました。「主の祈り」をわたしたちにお授けくださった主はそのことをはっきりと仰せです。

主イエスは、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と仰せの上で、「主の祈り」を祈るわたしたちに次のように明確に約束されました。

「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」

ルカによる福音が伝えるように、「弟子の一人」が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った時には、彼は単純に主から「祈り」の模範を求めていたのかもしれません。しかし、これに応えて、主イエスが、わたしたちに「主の祈り」をお与えくださったことは、主ご自身にとって特別なことです。それは、主がわたしたちに天の父なる神に「聖霊」を求めることをお許しくださったことだからです。ただしそれは、父なる神と御子キリストご自身にとって、さらにわたしたちにとって、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

それは、父なる神にとっては、御子キリストご自身、つまり御子のいのちをわたしたちにお与えくださることをよしとされた、ということです。「聖霊」とは、御父との活ける交わりにある御子キリストのいのちだからです。事実、そして確かに、御父は、「主の祈り」を祈るわたしたちに、御子キリストのいのちをくださいます。十字架においてただ一度。しかし、ミサのご聖体拝領の度ごとに。

ミサのご聖体拝領を目指して祈られる「主の祈り」。主イエスからいただいた「主の祈り」で、わたしたちは第一に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と、「神の国」を祈ります。続けて、「わたしたちに必要な糧」を、そして最後に、「わたしたちの罪の赦し」「罪の誘惑からの護り」を祈ります。

ここには、わたしたちが主イエスとともに祈る光栄に生かされるために大切なことの一切が祈られています。しかもそのすべてが、すでに主の内に完全に成就しています。その一切を、わたしたち自身の恵みとしてくださる方こそ「聖霊」です。

その「聖霊」を求めさせていただいて良いそれが「主の祈り」です。その「祈り」に応えて、主イエスは「聖霊」「わたしたちが目で見、よく見て、手で触れる」ことができる(ヨハネの手紙1)「ご聖体」においてお与えくださいます。それがミサです

マタイによる福音は、主イエスの「主の祈り」を、ご自身の福音宣教の始めの「山上の説教」の中心に伝えています。その際、主は弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と仰せの上で、「主の祈り」をお与えくださっておられます

「主の祈り」とは、「聖霊」を求める「祈り」です。それは、「わたしたちに必要なものすべてをご存知の父なる神」に、「父の霊」である「聖霊のご支配」に、わたしたちを委ねさせていただく祈りです。そのわたしたちに、父なる神は、聖霊において御子キリストご自身をお授けくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/20

年間第16週 ルカ10:38-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日のルカによる福音は、エルサレムまであと一息のベタニヤの町に住むラザロとマルタとマリアの家を、エルサレムへの最後の旅の途上に主イエスがお訪ねになられた時のことを、伝えていました。

実はヨハネによる福音によれば、主イエスはこの時とは別に二度、ベタニヤに彼らを訪ねておられます。主が、死んだラザロを甦らせてくださった時(ヨハネ11)と、エルサレム入城直前に、マリアから香油を注がれた時です(ヨハネ12)。

さて、今日の福音で、主イエスがラザロとマルタとマリアの家をお訪ねになられた時のことです。姉のマルタは、主を家に迎え入れ、「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた。」しかしその間、妹の「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」と福音は伝えていました。

姉のマルタは、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるように仰ってください」と主イエスに愚痴を言いました。その時、主は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」、とマルタを諭されたと福音は伝えています。

「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」妹のマリアを、主イエスは深くいとおしんでおられたと思います。しかし、姉のマルタに、「マルタ、マルタ」と心を込めて二度も繰り返して彼女の名前をお呼びになっておられる主のマルタに対する思いも、わたしたちには痛いほどに伝わってきます。主は、明らかに二人を同じようにともに深く愛しておられたに違いないと思います。

ただしこの時は、主イエスはマリアがご自身のみ前に跪いてご自身のことばに耳を澄まして聞き入っていることをことのほかお喜びになられたと思います。神のみことばに聞く。それは、神のみことばであるキリストのみ前に跪くことです。

律法、すなわち神のことばの教師を自認しつつ、結果的には、受肉された神のみことばであるキリストを十字架につけることになる律法学者たちには、どうしても理解できない真実を、マリアは身体で知っています。主イエスのみ前に心からの懺悔と感謝をもって跪く他に、神のみことばに聞く術はないという真実を。その上、神のみことばであるキリストに聞くことは、実は主のいのちをいただくことなのだという、主にとっても、わたしたちにとっても掛け替えのない厳粛な真実をも。

「必要なことはただ一つだけである。」それは、主イエスのみ前に跪き、主のみことばに聞き、みことばの内に主のいのちをいただくことです。「マリアはそれを選んだ。彼女からそれを取り上げてはならない」、と主は仰せになりました。

ここでわたしたちは、ルカによる福音が、ベタニヤのマリアが主イエスのみことばに聞く姿を、主がご自身の祈りである「主の祈り」を弟子たちにお与えになられる直前の出来事として伝えていることを、見逃してはならないと思います。

「祈り」こそ、パウロが「聖霊のうめき」(ローマ8:26)と語る、わたしたちが神からいただく「ことば」です。主イエスが「ご自身の祈り」をお与えくださるのは、わたしたちに祈りを教えてくださったという以上に、「聖霊のうめき」としての「ことば」、すなわち主ご自身をわたしたちにお与えくださるということです。主のみ前に跪くマリアの姿に、主から「主の祈り」、すなわち、みことばなる主ご自身のいのちである「聖霊」をいただくわたしたちのあるべき姿を、教えられるのではないでしょうか。

先にヨハネによれば、主イエスは、今日の福音とは別に二度マルタとマリアを訪れておられ、その最初は彼らの兄弟ラザロが死んだ時のことであったと申しました。

この時、主イエスの訪問を受けながらも、マリアは悲しみゆえに立ちあがって主をお迎えすることができませんでした。その主を家に迎え入れ、「わたしは復活であり、いのちである。このことを信じるか」との主の問いに、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、信仰の告白を以てお応えしたのは、実はマルタです。このマルタの信仰に応えて、主はラザロに再び命を与えて、彼をマルタとマリアにお返しになられました。

姉のマルタも主イエスに聞き続けた人であったことは間違いありません。ただし、人には、それぞれ逃してはならない時があります。妹のマリアは、今日の福音の時には、すべてを措いて主に聞かねばならなかったのです。主はマリアにその時を保証し、祝福を以てみことばであるご自身を彼女にお与えになられたのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/13

年間第15主日
ルカ10:25-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日のルカによる福音は、ある律法の専門家が、「イエスを試そうとして」次のように主イエスに尋ねたと伝えています。「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」

ミサにお集まりの皆さんは、すでにこの問いの答えをご存知です。永遠のいのち」とは、死に打ち勝ったいのち」であり死を越えて神の国にわたしたちを生まれさせ・生かすいのち」です。それは、死に打ち勝って復活された「キリストのいのち」以外にはあり得ません。したがって、「永遠のいのちを受け継ぐ」、それは、「キリストのいのち、すなわち聖霊をいただく」ことです。福音とご聖体において。今、皆さんが信仰によって与っているミサこそ、その答えです。

ところで、今日の律法の専門家とは、ファリサイ派と同様に、当時「律法、つまり神のことば」の教師を自認していた人々です。その彼に主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されました。

ここで「律法には何と書いてあるか」との主イエスの第一の問いと、「あなたはそれをどう読んでいるか」との第二の問いはまったく異なったレベルの問いです。日本語にも「身読(我が身を以って読む)」という表現がありますが、「あなたは律法・神のみことばをどう読んでいるか」との第二の問いは、その人の信仰、すなわち主なる神に対する生き方を問う問いだからです。つまり、「あなたは、神のみことばを真にあなたを活かす命としていただいているか」という問いです。

この律法学者は、主イエスの第一の問いには正確に応えています。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と、(律法に書いて)あります。」主は、第一の問いに正しく答えた律法学者に、「正しい答えだ」と仰せになられた上で、「それを実行しなさい」。つまり、「神のみことばをあなたの命としていただき、そのみことばに生かされて行きなさい」、「そうすれば命が得られる」、と。

「あなたは神のみことばから真に命をいただいているか」と主イエスは律法学者に問われました。神のみことばに聞くとは、律法学者たちがするように「神のことば」を上手に解釈し適用することではなく、神からわたしを生かす命をいただくことです。しかもこの時、彼は、みことばなる神・主イエスご自身の御前に立っているのです。この方にお聞きすればよいのです。この主から命をいただけばよいのです。

それにもかかわらず、主なる神キリストのみ前に「自分を正当化しようとして『では、わたしの隣人とはだれですか』」と問い返した律法学者に応えて、主イエスがお語りになられたのが、いわゆる「良いサマリア人のたとえ」です。たとえの内容は明快です。その上で主は彼に、さて、あなたはこの三人(祭司、レビ人、サマリア人)の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。

主イエスは彼に、さらに主のみ前に立つ「追いはぎに襲われ、半殺しにされていた」他でも無いわたしたちすべてに、誰が真の「隣人」になってくれるのか、誰が命を与えてくれるのか、と問い掛けておられるのです。もちろん、それは、キリストです。主イエスだけが、「追いはぎに襲われて半殺しになっているこのわたし」の「良いサマリア人」、さらには「良いサマリア人」に優って、わたしの真の「隣人」となり、わたしにご自身のいのちをさえ与えて、わたしを生かしてくださる方だからです。

「神のみことばにお聞きすることは、神から命をいただくこと」、と申しました。事実、受肉されたみことばである主イエスにとって、みことばをお語りになられることと、ご自身のいのちを裂いてわたしたちにお与えくださることは、同じ一つのことです。そうであればわたしたちが主にお聞きするみことば、主からいただく命とは、みことばなる主ご自身です。それは、ミサにおいて明らかです。福音に聞くこととご聖体をいただくことは、明らかに二つで一つのことだからです。

今、倒れて命尽きんとしていたこのわたしにご自身のいのちを与え、生き返らせてくださるためにわたしの「隣人」となってくださった「永遠のいのちキリスト」を、福音とご聖体においてわたしの命としていただく。そのようにみことばに聞かせていただき、みことばなる主イエスをわたしの命としていただきます。それがミサです。

その時、主イエスのいのちである「聖霊」がわたしの内に働き、わたしを用いて主のみ業を行ってくださいます。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。わたしの内に生きて働かれる主が、次には、このわたしを、助けの必要な人の「隣人」とさせてくださいます。主のいのちである聖霊をいただき、「行って、あなたも同じように行いなさい。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/6

年間第14週 ルカ10:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

『「神の国は、あなたがたに近づいた」と言いなさい。』

主イエスの弟子たちは、確信と喜びをもって大胆に人々に告げてよいのです。「神の国は、あなたがたに近づいた(今、来ている・完了形)神の国の主ご自身が弟子たちと共に訪問してくださっておられる(現存)からです。ルカは次のように伝えます。

「主は、(すでにお選びになっておられた十二使徒たちの)他に72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に(ご自身の顔の前に)遣わされた。」

実は、主イエスはわたしたちを派遣されるその「すべての町や村」を、すでにご自身で訪問しておられました。主は、わたしたちを、見ず知らずの地や、ご自身が会ったこともない人々の許に遣わされるのではありません。主の宣教の始め、十二弟子をお選びになられる直前のこととして、マタイは次のように伝えていました。

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」(マタイ9:35) 続けてマタイは、その時の主イエスのご様子をも伝えていました。「また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)

さらに、「そこで、(主は)弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイ9:37,38)との主イエスのみことばに続けて、マタイは、主が弟子たちの内からペトロたち十二人を特にお選びになり使徒として任命された、と伝えていました。

したがって、主イエスが使徒たちに託された使命は明快です。主は使徒たちを、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」「群衆」のもとに遣わし、「群衆」を神に(神のみ顔の前に)「収穫する」「働き手」とすること。使徒たちを「群衆」の魂の牧者とすることです。ただ、主は、それをどのようにしてなさるのか。

マタイは、主イエスの十二使徒の任命に際して大切なことを伝えます。「イエスは十二弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能(ex-ousia,ご自身を割く)をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった。」(マタイ10:1)

「汚れた霊を追い出す」ことができるのは「聖い霊」、復活のキリストご自身である「聖霊」だけです。主が弟子たちに「悪霊に対する権能」を授けられたことは、主が彼らにご自身そのものである「聖霊」つまりご自身を割いてお与えになられたということです。だからこそ弟子たちを通して働かれる「聖霊」は、これまで主がご自身でなさったように、彼らを用いて「あらゆる病気や患いを癒す」といわれるのです。

マタイは、主イエスは福音の宣教の始めに十二使徒たちに「行って、『天の国、すなわち神の国は、近づいた』と宣べ伝えなさい」(マタイ10:7)と命じられたと伝えていました。ルカによる福音では、主はこの同じことばをエルサレムへの最期の旅の途上、十二使徒の「他の72人」を任命された時にもくり返しておられました。72人とは聖書ではイスラエルの主だった者たちすべてを象徴する数であり、わたしたちを含めた主の弟子たちすべて、すなわち教会全体を暗示する数です(出エジプト24:1)。

したがって、主イエスの使徒たちに加えられた教会のわたしたち一人ひとりにも、主は使徒たちと同じ「聖霊」を主ご自身を割いてお与えくださり、歴史を貫き、わたしたち教会を通して主ご自身が救いのみ業を行って行かれるということです。

日本での福音宣教は困難であるという言葉を度々聞きます。しかし福音の宣教が容易であった時代や地域など世界のどこにもありません。「行きなさい。わたしはあなたを遣わす」と仰せになられる十字架のキリストは、「それは、狼の群れに小羊を送りこむようなものだ」と、宣教が命がけであることを、誰よりもよくご存知です。

ただし、落胆する理由は何もありません。主イエスはご自身が、かつて訪ねられたすべての町や村にわたしたちを遣わされるのです。そしてわたしたちと共に、主ご自身が、再び人々を訪問されるのです。この主ご自身が、わたしたちに語らしめた福音の一切の実りを、「聖霊」において、人々に必ず豊かに結ばせてくださいます。

後に、宣教に遣わされた72人が「主よ、お名前を使うと悪霊さえもわたしたちに屈服しました」と「喜んで」主イエスに報告した時、主は「むしろあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:17-20)と仰せでした。主の福音宣教にお仕えすることは、「わたしたちの名が天に書き記される(主がわたしたちをご自身に深く刻み込まれた・完了形)ことであることを、わたしたちは忘れてはなりません。 

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。