司祭の言葉 2/22

四旬節第1主日 マタイ4:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。当日のミサでは、灰を頭ないし額に受けました。聖書では、灰を頭に被ることは、神のみ前での懺悔と回心を表します。この心で、四旬節の期間を過したいと願います。

四旬節の四十と言う数字は、主イエスが荒れ野で「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」ことに因みます。「悪魔」と訳された聖書の原語“サタン”は、「(神からわたしたちを)引き離す者」「(わたしたちを神に)背かせる者」を意味する言葉です。

ところで、マタイによる福音は、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため」と語った後、不思議なことを伝えていました。に導かれて荒れ野に行かれた。」主イエスを荒野の試練に導き出したのは、悪魔ではなく、「神の霊」であったというのです。

ここで「神の霊」とは、今日の福音の直前にマタイが伝えていた、主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天の父なる神から与えられた「神の霊」つまり「聖霊」です。マタイは、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、『神の霊』が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった」と伝えていました。その同じ「父なる神の霊」・「聖霊」が、御子キリストを荒れ野の試練に導き出したというのです。

どういうことなのか。しかし、そうであれば、荒野で主イエスの受けられた試練は神のみ旨によるものであり、それを通して父なる神が主において成し遂げてくださる、わたしたちの救いのための大切なご計画があるということに違いありません。

ところで、今日の福音が語る主イエスの受けられた「悪魔(サタン)からの誘惑」は、よく考えてみると、わたしたち自身が繰り返し「悪魔」から受けている「誘惑」なのではないか。わたしたちは、大切な命や知恵や力を含めて、神と人とに仕えて生きるために過分な恵みを神から受けています。しかし、悪魔はわたしたちに神から受けた大きな恵みを当然のように思わせ、不満をさえ抱かせ、さらに神から与えられた知恵や力の恵みを用いて「神を試し、神に背き、神から離れる」ようにと誘います。

日本語でも「受けた恩に仇(あだ)で報いる」ということわざがあります。もちろん、そのように振舞う者は、人ではありません。同様に、神から受けた恵みによって、神に背くのであれば、もはや人とは言えません。従って、「悪魔からの誘惑」とは、もしそれに屈すれば、人が人でなくなってしまうような「罪の誘惑」ではないでしょうか。

そのような、事実わたしたちが受けている「悪魔からの誘惑」の一切を、実は、主イエスが、わたしたちに先んじて、わたしたちに代って味わい尽くしてくださった。それのみならず、その上で、「悪魔の誘惑」の一切に、主がわたしたちのために、前もって勝利を収めてくださった。これが、今日に福音が伝える、「神の霊」・「聖霊」に導かれての主の荒れ野の四十日の試練だったのではないでしょうか。

ところで主イエスは、荒野の四十日の試練の直後から、神の国の福音の宣教をお始めになります。その中で、主は、「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から「汚れた霊を追い出」して行かれます。「汚れた霊」・「悪霊」を追い出すことができるのは、「聖い霊」、すなわち「聖霊」だけです。

そうであれば、主イエスの福音宣教とは、主がご自身の内に働かれる「神の霊」・「聖霊」によって、わたしたちから「汚れた霊」・「悪霊」即ち「悪魔」を追い出し、わたしたちを神から離れず、神と堅く結びつけてくださる救いの業であるはずです。

主イエスは、荒野での試練において、「聖い霊」・「聖霊」によってわたしたちのために「汚れた霊」・「悪魔」に対して前もって勝利を収めてくださいました。「悪魔」に対する「聖霊」における主の勝利。わたしたちのために。それが今日の福音です。

主イエスは、荒野での四十日の試練の後、「汚れた霊」に取り憑かれたわたしたち一人ひとりから「聖霊」によって「汚れた霊を追い出し」、そのようにして、罪深いわたしたちのために、「汚れた霊」・「悪魔」に対して、常に、そして永遠に勝利を収め続けてくださいます。それが、わたしたちに対する主の福音宣教です。

ただし、主イエスの「聖霊」による「汚れた霊」に対する最後の勝利は、主ご自身の尊い自己犠牲である十字架とご復活、つまり「主の過越」を通してのみ勝ち取られ、わたしたちに成就するものであることを深く心に留めたいと思います。

四旬節第1主日の福音、荒野での悪魔の試練に対する主イエスの勝利は、わたしたちのための主の十字架における最後の勝利を、明確に指し示しています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/18

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

灰の水曜日(2026年2月18日)の黙想

マタイ6:1-6、16-18

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆

さんの額に十字架のしるしを致します(あるいは、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々が主イエスを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。