司祭の言葉 3/1

四旬節第2主日 マタイ17:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

わたしが長くお仕えした川越教会の旧担当司祭方、ローランド神父、ラバルト神父、シャール・アンドレ神父、ワレ神父が帰天されて年を重ねました。川越在任中、多くの方々から神父さま方についてお聞かせいただきました。笑顔を絶やさず、誰にも親切であられた神父さま方が、いかに大きな存在であられたかを教えられました。

わたしたちは人との関係が親しさを増して行く中で、その方の真実の姿を、つい見過ごしてしまうようになる危険がないとは限りません。主イエスの弟子たちも、主と親しく生活を共にさせていただく中で、ともすれば主への自分たちの期待や願いや思いが先に立ってしまうような誘惑があったのではないでしょうか。

その弟子たちの目に、父なる神は、彼らが主イエスと共に最後にエルサレムに上る直前に、主が実はいかなる方であるのかをはっきりお示しくださいました。主は、たんに優れた人生の教師、偉大なる義人などではないからです。そのために父なる神は、主と共にペトロたちを高い山に登らせ、彼らに御子の光り輝く真実のみ姿を目に見ることをさえお許しくださいました。それが今日の福音です。

それに加えて、父なる神は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の主イエスの弟子たちの耳に、御子を指し示して、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、誰の耳にもはっきりとお語りくださいました。

同時にその時、ペトロたちの目の前で、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセと共に現れて、主イエスご自身と語り合っておられたことをも彼らは「見た」と福音は伝えていました。ただし、主イエスはこの時、モーセとエリアと共に、何を語り合っておられたのでしょうか。

同じ出来事を伝えるルカによる福音は、それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと、はっきりと伝えています。

「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」。このことばから、エルサレムでの主イエスの最後、すなわち主のご受難と十字架の死を思います。

確かに、主イエスは、エルサレムで最後、すなわち十字架の死を遂げられます。しかし、実は、ルカの福音で「最期」と訳されている言葉は、元のギリシャ語では、単に「終わり」という意味の言葉ではなく、「過ぎ越し」(エクソドス)と言う言葉なのです。つまり、主イエスが、モーセとエリアと共に語りあっておられたのは、主の十字架のみならず、主の過越の出来事の全体であったということです。

もちろんそれは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主イエスの十字架の死を内に含みます。しかし、主の十字架の死に終始しません。「主の過越」。それは、主が、エルサレムでのご受難と十字架の死によって死に打ち勝ち、さらに、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、「主イエス・キリストの過越の出来事の全体」です。

「主の過越の全体」を以て、主イエスはわたしたちの「救い」を「成就」してくださいます。第一に、主はご自身のご受難と十字架の死によって、わたしたちの罪を贖ってくださいます。主が、わたしたちの罪の一切をご自身の十字架として負い抜いてくださる。それによってしか、わたしたちにとって罪を赦される道はないからです。

主イエスのわたしたちへの愛は、ご自身の十字架の死の犠牲においても、終わることはありません。主は十字架の死の後、わたしたちのために、「復活」してくださいます。十字架の死を越えて、主は復活され、ご自身の「いのちの息」である「聖霊」を、わたしたちに吹き込んでくださるためです。ひとえにわたしたちへの愛ゆえに。

それは、汚れた霊・罪によって神から離れていたわたしたちを「聖霊」によって聖め、聖くされたわたしたちを、ミサでの主イエスご自身の奉献に招き加えて、わたしたちをも「神への聖い捧げもの」として、再び神の御許に返してくださるためです。

「主の過越」。それは、罪に死んでいたわたしたちを十字架によって罪から贖い、さらに復活によってわたしたちに聖霊を注いで新しい者とし、遂には神に帰るいのちをわたしたちにお与えくださるための、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

「主イエス・キリストの過越」。それは、神なる主の愛による「主の十字架からご復活のいのちへと、主に結ばれたわたしたち自身の過越」でもあるのです。それが、主がエルサレムでわたしたちのために成し遂げてくださる恵みの出来事の全体です。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/22

四旬節第1主日 マタイ4:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。当日のミサでは、灰を頭ないし額に受けました。聖書では、灰を頭に被ることは、神のみ前での懺悔と回心を表します。この心で、四旬節の期間を過したいと願います。

四旬節の四十と言う数字は、主イエスが荒れ野で「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」ことに因みます。「悪魔」と訳された聖書の原語“サタン”は、「(神からわたしたちを)引き離す者」「(わたしたちを神に)背かせる者」を意味する言葉です。

ところで、マタイによる福音は、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため」と語った後、不思議なことを伝えていました。に導かれて荒れ野に行かれた。」主イエスを荒野の試練に導き出したのは、悪魔ではなく、「神の霊」であったというのです。

ここで「神の霊」とは、今日の福音の直前にマタイが伝えていた、主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天の父なる神から与えられた「神の霊」つまり「聖霊」です。マタイは、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、『神の霊』が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった」と伝えていました。その同じ「父なる神の霊」・「聖霊」が、御子キリストを荒れ野の試練に導き出したというのです。

どういうことなのか。しかし、そうであれば、荒野で主イエスの受けられた試練は神のみ旨によるものであり、それを通して父なる神が主において成し遂げてくださる、わたしたちの救いのための大切なご計画があるということに違いありません。

ところで、今日の福音が語る主イエスの受けられた「悪魔(サタン)からの誘惑」は、よく考えてみると、わたしたち自身が繰り返し「悪魔」から受けている「誘惑」なのではないか。わたしたちは、大切な命や知恵や力を含めて、神と人とに仕えて生きるために過分な恵みを神から受けています。しかし、悪魔はわたしたちに神から受けた大きな恵みを当然のように思わせ、不満をさえ抱かせ、さらに神から与えられた知恵や力の恵みを用いて「神を試し、神に背き、神から離れる」ようにと誘います。

日本語でも「受けた恩に仇(あだ)で報いる」ということわざがあります。もちろん、そのように振舞う者は、人ではありません。同様に、神から受けた恵みによって、神に背くのであれば、もはや人とは言えません。従って、「悪魔からの誘惑」とは、もしそれに屈すれば、人が人でなくなってしまうような「罪の誘惑」ではないでしょうか。

そのような、事実わたしたちが受けている「悪魔からの誘惑」の一切を、実は、主イエスが、わたしたちに先んじて、わたしたちに代って味わい尽くしてくださった。それのみならず、その上で、「悪魔の誘惑」の一切に、主がわたしたちのために、前もって勝利を収めてくださった。これが、今日に福音が伝える、「神の霊」・「聖霊」に導かれての主の荒れ野の四十日の試練だったのではないでしょうか。

ところで主イエスは、荒野の四十日の試練の直後から、神の国の福音の宣教をお始めになります。その中で、主は、「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から「汚れた霊を追い出」して行かれます。「汚れた霊」・「悪霊」を追い出すことができるのは、「聖い霊」、すなわち「聖霊」だけです。

そうであれば、主イエスの福音宣教とは、主がご自身の内に働かれる「神の霊」・「聖霊」によって、わたしたちから「汚れた霊」・「悪霊」即ち「悪魔」を追い出し、わたしたちを神から離れず、神と堅く結びつけてくださる救いの業であるはずです。

主イエスは、荒野での試練において、「聖い霊」・「聖霊」によってわたしたちのために「汚れた霊」・「悪魔」に対して前もって勝利を収めてくださいました。「悪魔」に対する「聖霊」における主の勝利。わたしたちのために。それが今日の福音です。

主イエスは、荒野での四十日の試練の後、「汚れた霊」に取り憑かれたわたしたち一人ひとりから「聖霊」によって「汚れた霊を追い出し」、そのようにして、罪深いわたしたちのために、「汚れた霊」・「悪魔」に対して、常に、そして永遠に勝利を収め続けてくださいます。それが、わたしたちに対する主の福音宣教です。

ただし、主イエスの「聖霊」による「汚れた霊」に対する最後の勝利は、主ご自身の尊い自己犠牲である十字架とご復活、つまり「主の過越」を通してのみ勝ち取られ、わたしたちに成就するものであることを深く心に留めたいと思います。

四旬節第1主日の福音、荒野での悪魔の試練に対する主イエスの勝利は、わたしたちのための主の十字架における最後の勝利を、明確に指し示しています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/18

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

灰の水曜日(2026年2月18日)の黙想

マタイ6:1-6、16-18

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆

さんの額に十字架のしるしを致します(あるいは、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々が主イエスを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/15

年間第6主日 マタイ5:17-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音で、主イエスは弟子たちに、「あなた方の義が、(律法を厳格に守ることに努めた)律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、あなた方は決して天の国(神の国)に入ることはできない」と、仰せになっておられます。

厳しいおことばです。しかし、主イエスの弟子たちは、主のこのおことばに深く心打たれたに違いないと思います。

主イエスの弟子たち。ペトロを中心に彼らは主の十字架とご復活の後には聖霊を受けて主と主の教会のために重要な働きをすることになります。しかし彼らが主に呼ばれた時はどうだったでしょうか。彼らの誰一人として、この世的にはとくに知恵や力に優れていたわけではなかったと思います。彼らはガリラヤ湖の漁師たちであり、あるいは罪人と呼ばれた取税人でした。しかも、今日の福音の主のおことばが彼らに語られたのは、その彼らが主に呼ばれてまだ間もない頃のことでした。

そのような彼らに、「神の子」として、「神の国と神の義」に生きること、つまり神の子に相応しく義しく生き、神の子に相応しく神の国に招き入れられることを、主イエスのように真剣に願い、熱く語りかけてくれた人が、かつてあったでしょうか。

日々の貧しい生活に追われる中で、彼ら自身、自分たちが「神の子」であること、神の子として神の国と神の義を望み、かつ願ってよいのだということなど、とうの昔に忘れてしまっていたのではなかったでしょうか。主イエスにお会いするまでは。

彼らは、主イエスにお会いして初めて、彼ら以上に真剣に彼らのことを思い、願い、祈ってくださっておられる方があることを知らされたに違いありません。同時に、主との出会いを通し、彼ら自身、実は彼らが思っているよりもはるかに貴いもの、つまり「彼らは神の子である」ことを、感激を以て確信させられたに違いありません。

わたしたちは、自分のことは自分自身が一番よく知っているように思っています。しかし、本当にそうでしょうか。本当にわたしたちは、自分のことを一番よく知っているのでしょうか。実は、わたしたちのことを一番よくご存じであられるのは、わたしたちではなく、わたしたちの主イエス・キリストではないでしょうか。

次の主日から四旬節を迎えます。四旬節は、「悔い改めて、福音を信じなさい」との主イエスのみことばを、日々心に刻みながら歩む時です。しかし、「悔い改める」とはいかなることなのか。ここで、日本語で「悔い改める」と訳されている聖書の元の言葉は、「(主と)ともに思うこと」、つまり「(主と)心と心を重ね合わせる」という意味です。つまり、「主と心を重ねさせていただく」。それが「悔い改める」ということです。そうであれば、「悔い改める」とは、わたしたちを大切に思ってくださる主のおこころを知り、その主のおこころをわたしたちが感謝していただくことです。

わたしたちは、自分のことを大事だと思ってはいます。しかし、実際にはその大切な自分のために何を求めたらよいのか、あるいはその大切な自分が一体何を望み、何を願ってよいのかさえ、自分自身ではよく分かっていないのではないでしょうか。

主イエスは、わたしたちが「神の子」であり、主ご自身の「兄弟」であることに心を向けさせてくださいます。さらにミサでは、主はわたしたちに、ご自身のからだと血を分け与え、文字通り、主とわたしたちがからだと血を分けた兄弟であることを、わたしたちの身の事実としてくださいます。使徒パウロが告げます。「あなたがたの命は、(兄弟である)キリストと共に神の内に隠されている」と(コロサイ3:3)。

主イエスは「山上の説教」の結びに、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と、仰せになります。これは、主の確実なお約束です。求める者に与え、探す者に示し、門をたたく者に門を開いてくださるのは、主イエスご自身だからです。

わたしたちは何を探し求めるのか。「神の子」であるわたしたちが探し求めるのは、「神の義」と「神の国」に生きることです。そのわたしたちに、主イエスは確実に「神の国」の門を開いてくださいます。主は今日の福音の冒頭に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と仰せでした。主は神の約束の成就として来てくださいました。

主イエスは、わたしたちのために、わたしたちの内に、「律法や預言者」・「神のみことば」を完成するために来てくださいました。みことばと聖霊によって、わたしたちを「神の子」としてくださるために。四旬節まで、「山上の説教」に導かれて、主のわたしたちへの願いと祈りに、主の愛に、そして聖霊においてわたしたちに働かれる主のおことばの権威と力にわたしたち自身を託させていただきたいと祈ります。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/8

年間第5主日 マタイ5:13-16

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「あなたがたは地の塩である。・・あなたがたは世の光である。」

先の主日から四旬節前までの主日のミサで、マタイの伝える主イエスの「山上の説教」からお聞きします。「主の山上の説教」。しかし、ここで主がなさるのは、たんに教えを説くのでは無く、みことばすなわち主ご自身をくださることです。

ところで、「山」に上ってわたしたちにみことばをくださる主イエスは、旧約の偉大な預言者モーセを想い起こさせます。モーセも、出エジプトの後、「山」に上って神からみことばを受けました。「(モーセの)十戒」と呼ばれてきました。ただし、『聖書』は、「神はこれらすべてのことばを告げられた」(出エジプト20:1)と、それを「十の戒め(教え)」」とは言わず、「神のすべてのことば」としています。「山」に上ったモーセは、神からすべてのみことば」を受け、それを、人々に伝えたのでした。

今、主イエスは、かつてのモーセのように「山」に上られます。しかし、主はモーセと同じではありません。主は、ご自身でお語りになられます。ご自身の権威と力において。主は神の「みことば」そのもの、「すべてのみことば」そのものだからです。

神のみことばそのものであられる主イエスは、たんに「教え(戒め)」を説くのでも、ユダヤの律法の教師のように神のみことばについて教えるのでもありません。主は、神のみことばをわたしたちにくださるのです。それは、神のみことばそのものであるご自身をわたしたちにくださることです。それが主の「山上の説教」です。

ただ、主イエスの時代のユダヤでも、律法学者たちのように、主のみことばを、単に「教え(戒め)」としか聞くことができず、それを自分たちの知恵や価値観で判断し、その「教え」を受け入れることはできないとした人が大勢いたことも事実です。

しかし、福音はその彼らのことを、単純に主イエスの「教え」を拒んだ、とは言いません。福音は、彼らは「神のみことば」である「主を十字架につけた」と言います。主のみことばをいただかないことは、たんに神の「教え」を聞かないというのではなく、「神」を「神」としていただかないということだからです。なぜなら、主のみことばは、たんなる「教え」ではなく、神ご自身だからです。

「受肉された神のみことば」であられる主イエス・キリストのみことばは、わたしたちに対して、「天地の創造主であり、全能の父である神ご自身」の「権威と力」をもって、「聖霊」によって確実に働かれます。

旧約聖書の冒頭に伝えられていることを、思い出してください。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」創造主である神において語ることと創造すること、すなわち神のみことばと神のみ業は一つです。そして、主イエスは、「万物を創造される神のみことば」ご自身です。使徒ヨハネが、その福音に、「初めにことば(みことばなる主)があった。ことばは神であった。万物はことばによって成った」と証言する通りです。主の「山上の説教」は、「教え」ではなく、「主のみことば」・「聖霊において働かれる神のみことばである主ご自身」です。

主イエスのみことばは、決して、わたしたち被造物の思いや知恵によって左右されません。主のみことばは、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と言われるように、それ自体、無から有を創造する神のみことばです。主のみことばは、ご自身のみ旨に従ってすべてを新たに創造される、神ご自身です。

事実、今日の福音で、主イエスは、次のように仰せでした。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」

ここで、主なる神・キリストはわたしたちに、「あなたがたはわたしの戒めを守って地の塩、世の光になるように努めてほしい」と教えておられるわけではありません。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である」と仰せです。これが主イエスのみことばです。そして主のみことばは、主がお語りになられた通りに、聖霊によって聞くわたしたちを「地の塩・世の光」として新しく創造してくださいます。

四旬節前まで、主イエスの「山上の説教」、すなわち「主のみことば」を、ご一緒にお聞きして参ります。天地万物を創造する主のみことばによって、わたしたちは新しく創造され、造り変えられて行くのです。これが、わたしたちカトリックの信仰です。

「おことば通りにこの身になりますように。」マリアさまのように、神のみことばである主イエスを、聖霊とともに、ご聖体においていただく。それがミサです。それが「主からみことばをいただく」ということです。主のみことばは聖霊において働きわたしたちの内に実を結んでくださいます。それが、救われるということです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。