司祭の言葉 1/11

主の洗礼 マタイ3:13-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日、わたしたちは「主の公現」を祝いました。その日、クリスマスにユダヤの一隅にお生まれになられた主イエスが、東方の博士に象徴される異邦人を含む全世界の民に、「福音」として「公(おおやけ)」にご自身を現わされました。

「主の公現」に続く今日は、「主の洗礼」を記念いたします。主イエスは、ご自身そのものである「福音」の宣教をお始めになるに先立って、民衆とともに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。しかしなぜ、民衆とともになのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスがヨルダン川のヨハネのもとに来て、民衆とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。この洗礼者ヨハネに、「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」

御子キリストが、ここで民衆とともに洗礼を受けられるのが、「正しい」と言われるのは、それが神のみ旨であり、それを通して民衆に対する父なる神のみ業が行われるということです。事実、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」、次の「三つのこと」が、神によってなされたと、今日の福音は伝えていました。

第一に、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、民衆とともに洗礼をお受けになられた主イエスにおいて、「天が開かれた。」民衆に対して。驚くべきことです。罪人、すなわち民衆の大多数に、「天」は閉ざされていたからです。詩編には、「死」を恐れる民衆の呻きのような祈りを多く納めています。彼らが恐れたのは、罪人のままで死ぬことにより、彼らに「天が永遠に閉ざされてしまう」ことです。つまり救いの希望が永遠に潰えることです。

例えば、詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち戻って、わたしの命を助け、慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国では、あなたを覚えている者はおりません。陰府の国で、誰があなたをほめたたえるでしょう。」

しかし今や、主イエスが民衆と共に洗礼を受けられたことによって、彼らに「天が開かれた」のです。ただ一度にして、かつ永遠に。同時に、「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。天は「聖霊のご聖櫃」だからです。

事実、その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「神のいのち」である「聖霊」が、今や見える形で「キリストの上に降った。」実は、天の父なる神はこの時、民衆とともにある御子キリストに、神のいのち・神ご自身である「わたしの霊を彼(キリスト)の上に置」かれたのです。

なぜなら、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」この神のみことばは、かつて預言者イザヤ(42:1)を通して語られたご自身の次のことばです。「見よ、わたしが支えるわたしの僕を、わたしの魂が喜びとする、わたしが選んだ者を。」その際、神はご自身のことばを次のように結んでいたのです。わたしはわたしの霊を彼の上に置く。」

父なる神が、「ご自身の霊を御子キリストの上に置」かれた。目に見えない「天の父なる神」の霊である「聖霊」が、民衆と共にある「御子イエス・キリスト」の内にあり、主イエスを通して目に見える形で民衆に生きて働かれるのです。「主イエスの福音宣教」はその始めから、民衆、つまりわたしたちに対する「主イエスにおける父なる神のいのちである聖霊の業」「父・子・聖霊の三位一体の神の業」に他なりません。

主イエスの福音宣教は、天地の創造主、全能の父なる神が、御子キリストに、「聖霊」を注いで、満を持して始められた「三位一体の神の業」です。従って、主の福音宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけのことではありません。みことばご自身である御子キリストの宣教を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちを含めた一切を新たにする、「神の創造の業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子」において見える姿で働かれる。「主イエス・キリスト」によって、目に見えない「神の霊・聖霊」が、「父なる神」の恵みの果実を目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、主イエスにおける「福音の宣教」です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/4

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまとともにおられた幼子イエス・キリストを礼拝した後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、クリスマス夜半の礼拝から主の公現の祭日までを、クリスマス(降誕節)の12日間としてお祝いして来ました。クリスマス夜半の礼拝以前のアドベントの期間は、復活祭前の四旬節の期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、クリスマス夜半の礼拝で幼子イエスをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日(本来は1月6日)まで続けられます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、仏教、とくにわたしの学んだ真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神(天)の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法には思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らが母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子イエス・キリストを、彼ら自身の目で見、おそらくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の観念的な知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子イエス・キリスト、まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神(のよう)になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日に、幼子イエスに見たのは、実に「神が人となられた」との真実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を彼らの「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子イエスにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。まったくその逆です。神ご自身が主イエス・キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに与えておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、したがって、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、すでに礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子イエス・キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神キリストを礼拝したはずです。幼子イエスにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子イエスにお会いした後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエス・キリストにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエス・キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めてまったく自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも主によって「神が人となられた」新しい世界にすでに招き入れられています。東方の学者と共にわたしたちも神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「別の道・新しい道」を歩き始めてよいのです

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。