司祭の言葉 12/7

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父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節の第2の蝋燭に火が灯りました。主イエスの使徒ペトロは、待降節のわたしたちは、(すなわち、救い主キリスト)の宿る新しい天と地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」と教えています(2ペトロ3:13)。

そのわたしたちに、洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国(すなわち、約束されていた義である主キリストの宿る新しい天と地)は近づいた」と、今日の福音の内に、待降節(アドベントad-ventつまり、神の到来)を高らかに告げています。

その洗礼者ヨハネを、福音記者マタイは、旧約の預言者イザヤのことばを引いて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」「荒野で叫ぶ者の声」であると紹介していました(イザヤ40:3a)。このようにして、マタイはわたしたちに、先の言葉に続くイザヤの預言の次の言葉を思い起こさせます。すなわち、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ40:3b,4)

主なる神が近づいて来られる。「来るべき神をお迎えするために、荒野に広い道を準備しなさい。そのために、高い山は削り、深い谷は埋めなさい。険しく狭い道があれば、広く平らにしなさい」と、神は、預言者イザヤを通してわたしたちに求めておられます。神にお会いさせていただくためです。

しかし、神はなぜこのように仰せになられるのでしょうか。わたしたちが、天地の創造主、全能の父なる神にお会いさせていただくためには、わたしたち一人ひとりに高い山を上り、深い谷を下って行く努力が求められてしかるべきではないでしょうか。実は、神は、預言者イザヤを通して、その理由を次のようにお告げになられます。

「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(すなわち、わたしたちのすべて)は共に見る。」(イザや40:5)

神がお会いになることを求めておられるのは、高い山に自力で上ることができる者たち、あるいは低い谷を自らの足で下りきることができる者たちだけではありません。そのような優れた者たち、つまりわたしたちの内の選ばれた者たち、限られた者たちだけではなく、「肉なる者」すなわち「わたしたちのすべて」が、「共に」神に見(まみ)えることができるようにと、神は強く願っておられるのです。

ここで「わたしたちのすべてが共に」と言う以上、「弱い者」、「貧しい者」、「小さい者」など、自力では高い山に上ることも、深い谷を下ることもできない者たちが、その中に含まれていなければなりません。むしろ、神に助けていただくこと無しには生きて行くことができない彼らこそ、神にお会いさせていただかなくてはならないはずです。しかし彼らとは、実はわたしたち自身のことではないでしょうか。

そのようにして神にお会いさせていただいた者すべてに、神はイザヤを通して、「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神」(イザヤ40:9c、10a)と、わたしたちの周りの多くの人々にも、主なる神を示し、救いを告げ知らせることを求めておられます。

わたしたちにとって、生涯かけて礼拝し、お仕えさせていただく神、真に畏れるべき唯一人の神にお会いさせていただくことこそ、真の救いです。もし、わたしたちが真の神にお会いできないならば、神ならぬあらゆるものに手を合わせて拝む人生を送る他ありません。また、真に畏れるべき神が不明ならば、神以外のすべてのもの、すなわち恐れる必要のないものすべてを恐れて生きる他無いでしょう。まことの救いとは、そのような悲惨な人生から解放されることではないでしょうか。

待降節(ad-vent)は、このようにして洗礼者ヨハネに励まされ、降誕日(Christ-Mass)に「わたしたちのすべてが共に」「神の栄光を仰ぎ見」させていただくために祈り備えるための大切な時です。

わたしたちは、ヨハネが彼の命をかけて指し示した「聖霊と火で洗礼をお授け下さる」主イエス・キリストが来られるのを切に待ち望んでいます。「その日」、主は、わたしたちのみ前にお立ちくださるだけではありません。主は、ご聖体においてわたしたちの内にまで来てくださいます。主は、ご聖体の内に、主の霊・聖霊としてわたしたちの内に働かれ、わたしたちすべてをご自身の似姿に変えてくださいます。実は、ミサこそ当にその時です。

主イエスは、わたしたちにご自身のいのちを与え、聖霊によって新たにするご聖体の秘跡となってくだるために、受肉し人となってくださいます。待降節の間、わたしたちが待ち望むのは、この主のご降誕です。「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(わたしたちのすべて)は共に見る。」それが主とわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/8

無原罪の聖マリア ルカ1:26-38

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

今日12月8日は「無原罪の聖マリア」の祝日です。「聖マリアの無原罪の御宿り」の祝日とも呼ばれて来ました。聖なる御子キリストの母として御子を宿されるご聖櫃とされるために、天地創造の初めから父なる神によって選ばれておられたマリアさま。聖母さまは、父なる神からの聖なるご委託ゆえに、神からの特別な恵みにより、当然ながら存在の初めから原罪のあらゆる汚れをまぬかれておられました。今日の祝日は、聖母さまのこの神的事実に、畏れをもって敬意と感謝をささげる日です。

ご聖体における御子キリストご自身のご現存に信仰において与るわたしたちにとって、御子のご聖櫃である「無原罪の聖マリア」の信仰は、古来、聖アタナシオや聖アウグスティヌスを始め教会教父方によって告白された「至聖なる聖マリア」の信仰として受け継がれて来ました。この信仰の伝統に基き、1854年ピオ9世教皇により「無原罪の聖マリア」「聖マリアの無原罪の御宿り」の信仰が改めてカトリックの教義として確認され、12月8日が祝日と定められました。このことをご自身がお喜びの内に確証されるように、1858年にフランス・ルルドで聖ベルナデッタにご出現になったマリアさまは、ご自分を「無原罪の御宿り」と紹介されました。先の聖ベネディクト16世教皇は、この祝日を「聖母の最も美しい祝日の一つ」とされています。

聖アタナシオが、聖母マリアさまを、「キリストにからだをお与えくださった方」(神の母聖マリア祭日読書課)とお呼びしておられるように、聖母さま無しにはわたしたちには受けるべき「キリストの御からだ」は無く、したがってご聖体の祭儀であるミサ聖祭を祝うことができません。わたしたちにとって、ご聖体におけるキリストの聖なるご現存を感謝し祝うカトリックの信仰は、「無原罪の聖母マリアさま」の存在無しには成り立たず、したがって聖母さまを欠いては、ご聖体の内に働かれる聖霊によるわたしたちの聖化、つまりわたしたちの「御子による救いのわざ」は成就しません。

それゆえ「聖なる教会は、神の母聖マリアを、御子の救いのわざから切り離すことのできないほどのきずなで結ばれた方として、特別の愛を込めて敬」ってきました(「典礼憲章」103)。神の救いのわざにおいて御子キリストと聖母さまを切り離すことができないゆえに、教会の暦では、主なるキリストの神秘に合わせて必ず聖母さまを感謝し記念させていただいて来ました。降誕日にマリアさまを母としてお迎えさせていただく御子キリストを待ち望む待降節中の今日、わたしたちが祝う「無原罪の聖マリア」「聖マリアの無原罪の御宿り」の祝日も、そのひとつの大切な機会です。

その今日、わたしたちが第一に心に留めさせていただきたいのは、冒頭に申し上げたように、聖母マリアさまこそ、主なる御子キリストの誕生のために、無原罪の内にあらかじめ神に選ばれ、御身をもって主をお迎えされる待降節を準備され、御子を宿されるご聖櫃としてご自身を神に捧げ、祈りと御身をもって主とわたしたちのために、降誕節(クリスマス)を成就してくださった方であられたという事実です。

このように、聖母マリアさまによって、旧約の時代、つまり人類の創造以来、目に見ることがゆるされなかった神ご自身が、今、聖母さまを母として、つまり母なるマリアさまから御からだをいただいた御子キリストとして、わたしたちの目に見える方となってくださいました。この人知を超えた聖なる神のみ業にお仕えされるために、「無原罪の聖マリアさま」として、聖母さまはあらゆる罪や汚れから守られたのです。

また、「無原罪の聖母さま」「聖母さまの無原罪の御宿り」を今日祝う教会は、聖母マリアさまへの感謝と同時に、聖母さまのように、聖霊に満たされた汚れもしみもない教会の喜ばしい誕生をも心を込めて祈り願い準備します。教会もまた、聖母マリアさまを母として、聖霊によって聖なる主キリストの花嫁として生まれるからです。

今日のルカによる福音は、天使ガブリエルによる聖母マリアさまへのお告げのことばです。「喜びなさい、恵まれた方よ。主はあなたとともにおられます。」この父なる神からのおことばは聖母マリアさまによって受肉し、御子キリストにおいて人となられる主なる神は、聖霊においてわたしたちの歴史を創造します。「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む。」

「無原罪の聖マリア」。見えない神が、マリアさまを母としてお生まれになられる御子キリストにおいて見える方となられる。聖母マリアさまは、神が創造し、神が支配されるわたしたち人類の歴史において最も大いなる出来事にお仕えくださるために選び、守られたのです。そして、その一切の業は活ける神の聖霊によるものです。

「聖霊があなた(聖母さま)に臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・神には、何一つおできないことはない。」

「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

この時が始めではありません。聖母マリアさまは、神へのこのお応えが、実は聖母さまがその母アンナさまに宿られたその存在の始めからのお応えであることを、聖霊の御守りと御導きの内に、ご自身すでに良く知っておられたに違いありません。

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。