司祭の言葉 11/30

待降節第1主日 マタイ24:37-44

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節第一主日。待降節から始まる教会の暦で今年はA年。福音は、おもにマタイによる福音からお聞きいたします。ルカとは語り方は異なりますが、マタイも福音の冒頭に、主イエスのご降誕に関わる人知を超えた不思議な出来事を語ります。

マタイやルカが主イエスのご降誕の出来事を物語る福音の冒頭で、しかし、ヨハネは福音の冒頭で、旧約『創世記』冒頭の神のことばをわたしたちに想起させます。「神は言われた。『光あれ。』」(創世記1:3)。神の天地創造の始めを語る旧約の神の「光あれ」とのみことばを受けて、新約のヨハネによる福音は巻頭で、その光はキリストであると、明確に宣言しています(ヨハネ1:4)。

ヨハネはさらに続けて、「光は闇の内に輝いている。そして闇は光に勝たなかった」(ヨハネ:1,5)と語り継ぎます。確かに、闇は光に勝つことはありません。なぜなら、闇がいかに深く、如何に重くとも、また、闇の支配が永遠に続きそうに思えても、「一燭の光」が灯されれば、その瞬間に闇は終わるからです

待降節は、祭色の「紫」が示すように、祈りを整えて主イエスのご降誕に備える慎みの時です。ただ、日本語で「待降節」(わたしたちを主語に、主のご降誕を待つ時)と訳すラテン語Adventus(英語でAdvent)は、元来、主イエスが主語で、「主が来られる」という意味です。使徒ペトロが、「キリストは、神ご自身の確かな約束に従って来られる」(ペテロ第2、3:13)と教える通り、必ず主が来られるのです。だからわたしたちは主を待つのです。喜びと期待の中にも謙遜と神への畏れの内に祈りを整えて。

待降節第一主日に相応しく、今日の福音で、主イエスは「目を覚ましていなさい」と仰せでした。これは、マタイによる福音の第23章の終りから25章までに伝えられる主の「終末預言」と言われるおことばの一節です。主は、わたしたちに「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである」と、仰せになっておられます。

聖書において「終末(パルーシア」とは、たんに「世の終わり」を意味しません。神の遣わされる救い主キリストによって、天地の創造主、歴史の支配者である天の父なる神が決定的な仕方で、かつ目に見えるお姿で歴史に介入され、神のみ心が行われる時のことです。すなわち、「終末」とは、主イエスが来られる時、に他なりません。

したがって、「終末」とは、主イエスによる「古い時の終わり」であるとともに、主による「新しい時の始め」でもあります。「終末」という「神の時」の中心に立っておられるのは、主イエスです。「目を覚ましていなさい」。なぜなら、わたしたちは、この主を、決して見失ってはならないからです。

確かにマタイの伝える主イエスの「終末預言」の中で、主は天変地異や戦争などの「大きな苦難」に触れておられます。これに触発されてか、2011年3月の東日本大震災以来、日本各地での相次ぐ災害や自然の異変、いよいよ安定感を欠く東アジアを含む国際情勢全般、すでに三年におよぶロシアによる主権国家ウクライナ侵攻に加えて、ガザにおける戦乱と、「終末の徴」を巡っての巷の議論は尽きません。

ただし、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の終わりではない」と、主イエスはっきり仰せの上で、ご自身の「終末預言」を「栄光の王なるキリストの(十字架上での)即位」を語る「主の来臨」の約束によって結んでおられます(マタイ25:31-46)。

「目を覚ましていなさい」との主イエスのみことばは、わたしたちにゲッセマネの主を思い起こさせます。世を徹して祈られる主は、傍で眠り込む弟子たちに仰せでした。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」

「目を覚ましていなさい。」それは、「いつも目を覚まして祈る」ためです。事実、ルカによる福音では、「終末預言」の結びに、主イエスは、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と仰せです。主の「過ぎ越し」すなわち、ご自身の十字架とご復活を以て古い時を終わらせ、新しい時を始めてくださる「終末」の主の証人とさせていただくために、「いつも目を覚まして祈りなさい」。

「主の時」が近づいています。待降節は、降誕日にベツレヘムで聖母マリアさまからお生まれになる救い主キリストを、わたしたちの祈りを整えて待つ大切な時です。

待降節第一主日の今日この日に灯された待降節第一の蝋燭が示す「キリストの光」を見つめ続けてください。「闇は光に勝てない」とのヨハネのメッセージを胸に、さらに二本、三本、四本と毎主日ごとに待降節の蝋燭に火を灯し続け、世界をキリストの光で満たしつつ、主イエスのご降誕の日を待ち望みましょう。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/23

王であるキリスト(年間第34主日)ルカ23:35-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

これは、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と主イエスに願った一人の罪人への、十字架上の主のおことばです。

今日、待降節直前の主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。来主日から始まる四週間の待降節を経て、クリスマス(降誕日)にお迎えする主イエス・キリストこそ、父なる神の御独り子であり、わたしたち「すべて」の王であられることを、待降節を控えてあらかじめ深く心に刻み込ませていただくためです。

ただし、わたしたち「すべて」の王キリストは、人知れぬナザレの村の貧しいおとめを母としてお生まれになります。しかも、「王であるキリスト」を祝う今日の福音は、主イエスの十字架の犠牲の死を語ります。まことの神イエス・キリストは、わたしたち「すべて」の王となってくださるために、十字架の上で即位されるからです。

しかし、それはなぜでしょうか。「王であるキリスト」の祭日の今日は、わたしたちにとって、神のこの秘義について黙想させていただく時です。

ところで、聖書において「王」は、神によって油注がれ、神と神の民のために、神から託される二つの使命に、正しく奉仕することが期待されています。一つは、わたしたち神の民「すべて」にパンとブドウ酒、つまり命の糧を保証することです。もう一つの使命は、わたしたち神の民「すべて」に、汚れの無いパンとブドウ酒を捧げての主なる神への奉献の礼拝を、まっとうさせる責任を負うことです。

時が満ち、父なる神は御子キリストを「まことの王」としてわたしたちにお与えくださいます。それは、父なる神が歴代の地上の王に託して、しかし果たされることがなかった上の二つの務めを、御子キリストにおいてまっとうしてくださるためです。

そのために、父なる神は、御子キリストをナザレの貧しいおとめを母として、わたしたちにお与えくださいました。そのようにして、神は主イエス・キリストによって、わたしたちの内で「最も貧しい者の一人」となってくださいました。それ以外に、主なる神ご自身がわたしたち「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。

そのことは、主イエスにおいて非常に具体的な事実でした。主は、人知れぬ寒村で、貧しさの中に生を受け、幼少時より厳しい生活と激しい労働に耐え、苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣き、長じて後の「神の国」の宣教のご生涯においても、家のない旅の生活の困難や辛苦を味わい尽くされました。

わたしたち「すべて」の王となられるために、ご生涯を通してわたしたちの内の「最も貧しい者の一人」となってくださった父なる神の御子キリスト。主はその上さらに、今日の福音が伝えるように、ご自身に「十字架上の戴冠式」を求められたのです。

それは主イエスご自身のからだが裂かれ、血が流されることによってのみまっとうされる王なるキリストの即位式です。なぜでしょうか。主が王として民の最も貧しい者の生活と思いを知ってくださるだけで十分ではないでしょうか。

実は、今日の福音が語る「主イエス・キリストの十字架上の即位式」すなわち十字架における主の自己奉献無しには、冒頭に指摘した、神が「王」に託される第二の使命、すなわちわたしたち「すべて」に、パンとブドウ酒を捧げての神への奉献の礼拝を、真にまっとうさせることは不可能だからです。聖なる神への相応しい唯一の捧げものは、汚れの無い永遠のいのちのパンとブドウ酒、すなわちまことの王キリストご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

それだけではありません。「王」の第一の使命である、わたしたち「すべて」に、いのちの糧であるパンとブドウ酒を保証すること。実際にはこのことも、主イエス・キリストの十字架上のご自身のご奉献無しには不可能です。なぜなら、父なる神が御子キリストにおいてわたしたち「すべて」にお与えくださろうとなさるのは、わたしたちのこの世の命を支えるだけのパンとブドウ酒ではありません。実は、わたしたち「すべて」に永遠のいのちを与えるまことのパンとまことの飲み物です。これも、まことの王キリストにとって、ご自分の御からだと御血以外には無いからです。

「王であるキリスト」の祭日の今日、わたしたちはこの唯一の王キリストを礼拝します。そして十字架においてわたしたちすべての王となってくださるこの同じ方を、来週からの待降節の後、わたしたちは、ベツレヘムに聖母マリアさまからお生まれになる「幼子」としてお迎えいたします。それが、主イエスとわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/16

年間第33主日 ルカ21:5-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

翌主日は待降節前主日。教会歴の一年の締め括りの翌主日を、教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。主イエスの御降誕に備える待降節に入る直前の主日に、クリスマスに聖母マリアさまの胸に幼子としてお迎えする神の子キリストこそ、わたしたちの真の王、唯一の主であることを深く心に刻ませていただくためです。

ただし、「王であるキリスト」を祝う主日に読まれる福音は、主イエスの十字架の犠牲の死を語ります。まことの神である主イエス・キリストは、わたしたちの唯一の王となってくださるために、十字架上で王として即位されるからです。(ルカ23:35-43)

主イエスはそのために、すでにエルサレムにお入りになっておられます。今日の福音は、ご自身の十字架を間近に控えての、主の「終末の予告」の冒頭の部分です。主の終末の予告全体は、エルサレムの神殿の崩壊の予告に始まり、神の都エルサレム全体の滅亡の予告を経て、栄光の王キリストの来臨の予告をもって結ばれます。

主イエスの「終末の予告」は、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話しているとイエスは言われた」ことを契機に語りだされています。主は彼らに仰せです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、(エルサレム神殿の)一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

天の父なる神は、地上にご自分の「聖名」を置かれるために、人に神殿を建てることを許されました。その神殿を中心に建設された町がエルサレムです。そうであれば、エルサレムに住むことを許される主の民に、主なる神がお求めになられることはただ一つです。それは、主の民が、主がご自身の「聖名」を置かれた神殿に集い、主の「聖名」を、すなわち主なる神を賛美・礼拝させていただくことです。

地上に、主なる神がご自身の「聖名」を置かれる。それは、いかなることなのでしょうか。それは、主ご自身がそこでわたしたちにみことばを語り、祈りをお聞きくださるということです。そのようにして、主がわたしたちにお会いくださる。主のみことばに聞き、祈ることによってわたしたちは主にお会いさせていただけるのです。

しかし、神の「聖名」が置かれた町で、人々はこれまでいかに振舞って来たのでしょうか。主イエスはエルサレムにお入りになる前に、次のように嘆いておられました。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

神殿がいかに素晴らしくとも、人の手で造られた神殿がわたしたちを救う訳ではありません。神殿の内に主なる神が置かれた「聖名」において、神がわたしたちにお語りになる「神のことば」によって、すなわち、神によってわたしたちは救われるのです。エルサレムの人々は神殿を誇っても、「神のことば」に聞こうとしませんでした。それどころか、彼らは、「神のことば」を携えた「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」。彼らが、時を置かずに「神のことば」ご自身である主イエスをさえ十字架に付けることになることを、主はすでにご存知です。

確かに、主イエスが今日の福音で「予告」された通り神殿は崩壊し、「神のことば」に聞かぬエルサレムの町は滅亡します。罪によって滅びゆくエルサレムで、しかし罪にもかかわらず、滅ぶことをお望みにならないわたしたち罪人のために、実に十字架上で、主イエスは「まことの王」・「栄光の主」として即位されるのです。

ヨハネによる福音も、エルサレムの神殿崩壊を示唆する主イエスのおことばを伝えています。主がエルサレム神殿から両替人等を追い出された際に、主に抗議したユダヤ人たちに主は応えて、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」と仰せでした。彼らが主に、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と詰め寄った時、福音は次のように告げます。

「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスのことばを信じた。」(ヨハネ2:21,22)

神の「聖名」「神のみことば」なる主イエスは、わたしたちに十字架のご自身のからだをもってまことの「神殿」とし、復活の主ご自身をもって、聖霊によって神なる主とわたしたちとの出会いを、今ここに成就してくださるのです。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/9

ラテラン教会の献堂 ヨハネ2:13-22

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日、ローマのラテラン教会の献堂を記念しています。ラテラン大聖堂は、使徒ペトロの後継者であるローマ司教(教皇)の「司教座」聖堂として、320年頃、ローマ皇帝コンスタンティヌスによって献堂されました。当初は「救世主(キリスト)大聖堂」と名付けられたラテラン教会は、「ローマ司教座」の特別な重要性から、「ローマと世界のすべての教会の母であり頭」と呼ばれて来ました。

コンスタンティヌス大帝こそ、313年のミラノ勅令によって教会を公認・保護し、長く続いたローマ帝国による教会の迫害に終止符を打たれた方です。後に、紀元380年には皇帝テオドシウス1世により、カトリック教会はローマ帝国の国教とされます。その際のカトリック教会とは、ローマ司教を「信仰の保護者」とする、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレキサンドリア、そしてエルサレムの五大司教区の全体のこととされていました。

コンスタンティヌス大帝は、キリストの十二使徒の頭・聖ペトロの殉教の記念として、同じローマに、聖人の墓所を覆うようにして聖ペトロ大聖堂をも献堂していますが、14世紀初めの教皇のアビニヨン捕囚までは、ラテラン大聖堂が、聖ペトロの後継者としてのローマ司教(教皇)の「司教座」聖堂であると共に、「使徒座」聖堂としての機能を果たしていました。その後1377年の教皇のローマへの帰還の後は、ラテラン教会に代えて、聖ペトロ大聖堂が、特に「使徒座」聖堂とされ、教会一致の目に見える中心として現在に至っています。

今日の祝日は、五大司教区中ローマ司教区の祝日として長く西欧でのみ祝われていましたが、16世紀以降、世界に広がったローマ典礼の全教区によって、「ローマ司教」である教皇との一致と親愛の徴として祝われるようになりました。

さて、今日の福音は、キリストの「宮清め」の出来事と呼ばれてきました。ヨハネによる福音は、主イエスの宣教の始めに、この出来事を伝えています。しかし、同じ出来事をマタイ、マルコとルカの福音は、聖週間のこととしています。

マタイ等は、宮清めの時、主イエスは「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とのイザヤの書からのことばをお語りになられたと伝えています(マタイ21:13)。今日のヨハネによる福音は、同じ時、主イエスは、エルサレムの神殿を「わたしの父の家」とお呼びになられたこと、さらに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」と仰せになられたと伝えています。

ヨハネによる福音は、この主イエスのおことばに続けて、「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのこと」であり、そのことを、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこういわれたのを思い出し、聖書とイエスの語られたことばとを信じた」との説明を加えています。

ラテラン大聖堂は、時のローマ皇帝によって、使徒ペトロの歴代の後継者であるローマ司教(教皇)の「司教座及び使徒座」大聖堂として献堂されました。このことの教会史、否、人類史における意義の重大さは、改めて申し上げるまでもありません。但し、復活のキリストのからだである教会を、主イエスご自身が「岩」と呼ばれた使徒ペトロの上に建てられるのは、あくまで主ご自身です。

主イエスは、「あなたはメシア、生ける神の子です」との使徒ペトロの告白に応えて、次のようにはっきりと約束されました。(マタイ16:16-18)「シモン(ペトロ)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ(「岩」)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」

そうであれば、主イエスご自身によって、「岩」なるペトロの上に建てられた主ご自身のからだである教会の内に働かれるのは、主のみことばと、みことばをわたしたちに恵みとして実を結ばせてくださる聖霊に他なりません。

その時、教会は、正しく、「祈りの家」と呼ばれます。「祈り」こそ、神とわたしたちを結び合わせてくださる聖霊の働きの見える姿、その働きの実りだからです。「祈り」は、ご自身をわたしたちにお与えくださる奉献の主イエス・キリストご自身であり、聖霊によって働き、わたしたちに実を結ぶ神のみことばです。

主イエスは仰せになられました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」

教会は「祈りの家」。「祈り」そのものである主の家。この祈りの家で、キリストによって、神のみことばと聖霊の恵みに満たされます。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。