司祭の言葉 11/2

死者の日 ヨハネ6:37-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

11月1日の「諸聖人の祭日」に続いて、「死者の日」と呼ばれる11月2日は、英国では「諸聖徒の日」(Holy souls)と呼ばれます。日本では、洗礼を受けずに亡くなった方々に配慮して「死者の日」とされたのだと思いますが、この日は「諸聖徒の日」と呼ばれる方が、教会の暦には相応しいと思います。

「諸聖人」あるいは「諸聖徒」の「聖」とは、如何なることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、教会で列聖された「聖人」を含めて、広く「聖徒」とは、彼自身聖なる特別な人と言うよりも、神によって「聖くされた人」、つまり「キリストのものとされた人」のことであるに違いありません。

「父がわたしにお与えになる人は皆わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:37-39)

ここで、主イエスが「ご自分のものとされた人」、つまり、主によって「聖とされた人」について、主ご自身は、それは「父がわたしにお与えになった人」と仰っておられるだけです。

主イエスは、わたしたちの中で、特に聖い人たち、正しい人たちを、主が選ばれたとは言われていません。「天の父なる神が、子なる神キリストに託された人たち」を、主は、ご自分のものとする、「聖」とする、と言われるだけです。

すなわち、「諸聖徒」とは、天の父なる神から主イエスに託され、主によって「聖」とされた人たちのことです。そうであれば、感謝すべきことに、これはわたしたちすべてにも、信仰によって開かれている恵みではないでしょうか。

「諸聖徒」方は、主イエスによって「聖とされた人々」です。彼らについて、主は先のおことばに続いて、さらに、次のように仰せになっておられます。

(わたしの父の)御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39-40)

主イエスのみことばは、単なる慰めや約束の言葉では決してありません。神が聖霊によって成就される恵みの事実です。神のみことばは、聞くわたしたちに、今ここで、聖霊によって働く力であり、事実です。神のみことばは、聞くわたしたちをして聖霊によって「聖とする力」、すなわち「主のものとしてくださる力」です。主は、わたしたちにみことばをくださる時、みことばとともに必ず聖霊をくださいます。これがカトリックの信仰です。ここにわたしたちの希望があります。

そして、この聖霊なる神こそ、元来わたしたちに、「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。しかもこの聖霊こそ、みことばとともに働いて洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、さらにミサにおいてわたしたちの捧げるパンとブドウ酒を主イエス・キリストご自身の御からだと御血、つまり主ご自身のいのちとしてわたしたちにお与えくださる方、に他なりません。

主イエスは、わたしたちにみことばを与えてくださるだけではありません。みことばとともに、主はわたしたちに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働き、主のみことばをわたしたちの内に結ばせてくださいます。これが、主のみことばと聖霊の力、すなわち、福音の力です。

11月1日にわたしたちが記念した「諸聖人」方に続いて、今日記念している天にあるわたしたちの信仰の先達である「諸聖徒」方。彼らは、主イエスによって「聖」とされた方々です。主によって、祝福のみことばとともに聖霊を受けた方々です。聖霊によって、主のみことばが、彼らのいのちそのものとされた方々です。彼らは、聖霊によって、神と人とに対する祝福とされた方々です。

諸聖人方とともに諸聖徒方は、天のみ国にあって、愛と感謝を以って、ひたすらに主イエスを褒め、とこしえに主を称え賛美しておられると、教会は信じて来ました。わたしたちの主への愛と賛美は、地上において制約されたわたしたちの主への思いを遥かに超えて、天においてこそ全うされるに違いありません。諸聖人・諸聖徒方は、このことをすでによく知っておられる方々であるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/26

年間第30主日 ルカ18:9-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音の「神の国のたとえ」は、「ファリサイ人と徴税人のたとえ」と呼ばれています。主イエスはこのたとえを特に、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」話された、と福音は伝えていました。

今日の福音の直前に語られた「やもめと裁判官のたとえ」を通して、主イエスは、「神の国」を待ち望む者たちに「気を落とさずに絶えず祈る」ように励ましてくださいました。なぜなら「神は速やかに裁いてくださる」、と主は仰せでした。

「神の国が来ますように」と祈ることは、「神の正しさ、すなわち神の義が行われること」を祈り願うことです。それは、「神の国の主・裁き主キリストが来ますように」と祈ることに他なりません。ファリサイ人は「神の国」を求めると言いつつ、「神の国の主」キリストと、主によってこそもたらされる「神の正しさ」を求めていなかったのです。ここに、彼らの問題の深刻さがあります。

仮に、ファリサイ人たちが、「神の国」を熱心に祈り求めたがゆえに、主イエスにお会いし、主こそ彼らが待ち望んできた「神の国の主」であると知り、主のみ前に立つことを心から畏れたのであれば、彼らは今日の「たとえ」で、主から「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」と言われることはなかったはずです。

しかし、神殿での祈りの最中に、自らの「正しさ」を神のみ前に誇り、返す刀で他人を裁きさえするファリサイ人の傲慢を描く、今日の主の「たとえ」。それは、たんにファリサイ人の他人に対する傲慢に留まらず、主なる神・義なるキリストに対する救われ難い傲慢であることを示唆して余りがあります。

今日のたとえで主イエスは、「言っておくが、(神によって)(正しい者)とされて家に帰ったのは、(遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と願った)この徴税人であって、(自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下した)ファリサイ派の人ではない」と、はっきりと仰せになっておられました。

人を「義(正しい者)」とすることがおできになるのは、神のみです。人は自らの知恵や力で自らを「義(正しい者)」とすることは出来ません。そうであれば、人が神のみ前に「義(正しい者)」とされるために、神が求められることは、他人と比べて自らの「正しさ」を誇ることではあり得ず、神のみ前に謙遜であることです。主イエスは、今日のたとえを次のみことばで結んでおられます。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

福音は、今日の「たとえ」に続けて子供を祝福する主イエスを伝えます。その際、主は子供を祝福されながら、次のように仰せになられたと伝えられています。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

神のみ前に謙遜であること。それは、「子供のように神の国を受け入れること」です。子供のように、主イエスを信頼し、主に自らを全面的に委ねることです。「義(正しい)」とされるために、主がわたしたちにお求めになられるただ一つのことは、主を心から信頼し、謙遜に自らを主に委ねさせていただくことです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 主イエスのこのみことばは、同じくルカによる福音の伝える「マリアの賛歌」の中の聖母マリアさまのおことばを、皆さんに想い起こさせるのではないでしょうか。

「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、・・身分の低い者を高く上げ」と、神を賛美するマリアさまは、直前に次のように語っておられました。

「主のみ名は尊く、その憐れみは代代に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

「主を畏れる者」に「偉大なことをなさってくださった」「力ある神」。

「神の御母」は、御子キリストに「はしため」としてお仕えになられました。聖母マリアさまのご生涯は、心から主を畏れ、信仰によって主イエスにご自身を委ね切り、謙遜の限りを尽くされての主への献身と賛美でした。マリアさまの子であるわたしたちも、母マリアさまと同じく「神を畏れる者」へと召されています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/19

年間第29主日 ルカ18:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

今日の福音の「神の国のたとえ」は「やもめと裁判官のたとえ」と呼ばれてきました。主イエスはこの「たとえ」を、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに語られた」と福音は語り始めていました。

「気を落とさずに、何を、絶えず祈らなければならない」のでしょうか。主イエスの「たとえ」で、「やもめ」が昼夜を問わず「裁判官」に「気を落とさずに絶えず求め」続けたのは、「正しい裁き」・「正義」です。その「やもめ」の願いに「不正な裁判官」さえ心を動かされ、彼女のために「正しい裁き」を行います。

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

「神が裁きを行われる」。今日の「神の国のたとえ」で、主イエスはわたしたちに「神の裁き」・「神の義」を「気を落とさずに絶えず祈る」よう教えておられます。それが「神の国」を待ち望むということです。主はこのたとえの直前に、ファリサイ人の「神の国はいつ来るのか」との問いに応えて、次のように仰せでした。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20,21)

「神の国が来る」とは、主なる神がわたしたちに対して「神の裁き」を行い、「神の義」を全うされることです。それは、「ここ」や「あそこ」というような問題ではなく、「あなたがたの間」、すなわち「誰が、誰に対して」と言う問題です。「神の国」とは、「神の国の主」キリストとわたしたちとの「間」に起こる出来事です。

しかしファリサイ人たちは、このことに気付いていなかったように思われてなりません。彼らの「神の国」の問いに応えて、主イエスは続けて仰せでした。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子(すなわち主)もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

ここで、主イエスは「人の子」、すなわち主ご自身に起こることを語っておられます。それはそのまま、主ご自身とファリサイ人たちとの「間」に起こる事実以外の何事でもありません。「神の国」、したがって「神の裁き」・「神の義」の問題は、実に、主と、主を十字架に付ける者たちとの「間」の事柄です。

彼らだけではありません。主イエスはここで、ご自身にわたしたちすべての罪と苦難の一切、わたしたちの「裁きの一切を負われる」ことによって、わたしたちの「裁き主」となられることをもはっきりとお示しになっておられます。「裁き主」キリストご自身の十字架において、「神の国」は来り、「神の裁き」・「神の義」は成るからです。

「神の国はいつ来るのか」と主イエスに尋ねたように、ファリサイ人たちも「神の国」を絶えず祈っていました。しかし後に、彼らは「神の国の主」キリストを十字架に付けることになります。なぜ、そのような事になってしまったのでしょうか。

彼らは、「神の裁き」すなわち「神の義」と「神の国」とを、全く別に考えていたのでしょう。彼らが祈った「神の国」とは、実は彼らの願いの成就であり、「神の裁き」・「神の義」の成就ではなかったのです。「神の国の主」・「裁き主」キリストのみ前に「悔い改め」、彼ら自身が主イエスによって新たにされることではなかったのです。その彼らには、主はむしろ邪魔な存在になってしまったのです。

主イエスは、マタイの伝える「山上の説教」の中で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と仰せでした。ファリサイ人たちも、主のこのみことばを聞いていたはずです。しかし、わたしたちにとって、これは他人ごとでしょうか。

ご自身に「裁きの一切を受ける」ことによって、すなわち、ご自身の十字架においてわたしたち罪人の「裁き主」となられる主イエス。ここに「神の義」が成就されるのです。この主によってのみ、「神の国」は来るのです。主は仰せです。

「言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来る時、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/12

年間第28主日 ルカ17:11-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 主イエスは、重い皮膚病から癒されたサマリア人にこのように仰せになりました。

この出来事を伝える今日の福音は、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と語り始めていました。「サマリアとガリラヤの間」とは、当時ユダヤ人が忌み嫌ったデカポリスと呼ばれていた地域の一部で、彼らがエルサレムに上る際には避けて通った土地でした。したがってエルサレムに向かう最後の旅の途上、主イエスは意図的にその地をお通りになられたのは明らかです。

実はそこは、ユダヤの村々から忌避され追放された、重い病を患った人々が多く住みついていた地域でもありました。その地域のある村で、主イエスは、当時、病の中でも人々に最も忌み嫌われた重い皮膚病を患っていた10人の人々の「出迎え」を受けられました。ただし彼らは、主のもとに駆け寄ることをせず、「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、わたしたちを憐れんでください』」と主に叫び求めた、と福音は伝えていました。

主イエスはその彼らの許に行き、彼らが重い皮膚病を患っているのを見、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とお命じになりました。当時その病を患っている人々は汚れているとみなされており、病が癒されるまでユダヤの村に入ることは律法によって禁じられていました。そして、彼らの病の癒しの確認、したがって彼らのユダヤの村への帰還の許可は、祭司たちの判断に委ねられていました。

彼らが、主イエスのおことばに従って祭司たちを訪ねようとした道の「途中で(彼らは)清くされた」、つまり、重い皮膚病から癒されました。その後、彼ら「10人の中の一人」が、「大声で神を賛美しながら、(主の許に)戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」、と福音は伝えていました。

ただし、その人はユダヤ人ではなく、彼らから異邦人と蔑まれていたサマリア人でした。実はその当時、異邦人の間にもイスラエルの神を信じ、エルサレムの神殿に詣で、主を礼拝する多くの人々がいました。そのためエルサレム神殿の中に、彼らのために「異邦人の庭」と呼ばれる場所が用意されていました。このサマリア人もそのような異邦人の一人だったのでしょう。彼が、病癒されてユダヤの地に入ることを切に願ったのもひとえに神殿に詣でたいがゆえであったと思います。

サマリア人の彼は、まことの神をひたすら求めながらも、異邦人の彼が神の恵みをいただくのは決して当然のことではないと思っていたと思います。その彼にとって、主イエスによって救われた喜びはひとしおであったに違いありません。主は、「清くされたのは10人ではなかったか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」と言われた上で、そのサマリア人に仰せでした。

「立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ルカによる福音は、「あなたの信仰があなたを救った」との主イエスの同じおことばを、後にも伝えています。それは、主がエルサレムに入られる直前のエリコの町で、「目が見えるようになりたいのです」との盲目の人の求めに応えて、主が彼の目を開いてくださった時のことです。主は、この人に言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ18:42)ただしこの時、主はこの盲人の目を誰に向けて開かれたのでしょうか。

エリコの盲目の人のように、重い皮膚病を患っていたサマリア人も、ユダヤ人から異邦人と蔑まれながらも、目に見えない神を信じ、その神によって救われることを祈り願い、待ち望んでいた長い年月があったと思います。主イエスは、彼の祈りに応えて、彼の目を神なる主ご自身に向けて開かれたのです。彼のために、ユダヤ人が避けて通る「ガリラヤとサマリアの間」を通ることまでされて。

その時、この異邦人は、彼を訪ねてくださった主イエスの内に、救い主なる真にして唯一の神にお会いしたのです。目に見えない神に対する彼の「信仰」によって、今や、まことの神なる主キリストご自身に向けて彼の「目が開かれた」のです。

「信仰」とは、漠然と神の存在を信じているということではありません。「信仰」とは、わたしたちの「目」が主イエスに対して開かれることです。主を真にして救い主なる神として、わたしたちの目にはっきりと見させていただくこと。つまり、「信仰」とは、主イエスに出会わせていただくことです。むしろ、神なる主がわたしたちにお会いくださることです。それは「聖霊」の働きです。「信仰」とは、聖霊におけるご復活の主イエス・キリストとの出会いです。ミサこそ、わたしたちの「信仰」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/5

年間第27主日 ルカ17:5-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

これは、主イエスの使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と主に願った時に、主が彼らに応えられたおことばです。しかしなぜ、この時使徒たちは、主にとくに「信仰を増してください」と願ったのでしょうか。信仰による御利益のようなことを求めてのことだったのでしょうか。そうではありません。今日の福音の直前に、主は使徒たちに仰せでした。

「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

実は、兄弟を一日に七回、すなわちどこまでも赦すようにとの主イエスのおことばを受けた使徒たちが、主に、「信仰」を願ったのです。そして、それは正しいことでした。兄弟の罪をどこまでも赦すことは、もはやわたしたちの良心、あるいは倫理観や、それに基づくわたしたちの努力の問題ではなく、わたしたちの力を越えて、優れて「信仰」の問題であることに、使徒たちは気付いたに違いないからです。

そのように、主イエスに「信仰」を求めた使徒たちに、主がお応えになられたのが、説教の冒頭に引用した主のおことばでした。「もしあなたがたに・・。」

ところで、「からし種一粒ほどの信仰」との主イエスのおことばから、先に同じルカによる福音(13章)からお聞きした「からし種のたとえ」を想い起こします。主は、「神の国」を「からし種」にたとえて、次のように仰せでした。

「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」

主イエスが語られる「神の国のたとえ」は、わたしたちのただ中で、「神の国の主キリスト」ご自身によってすでに始められている「神の国」の現実と、したがって「神の義」・「神の裁き」の真実と力を明らかにします。罪人であるわたしたちが、罪にもかかわらず主のみ前に生かされてあるのは、ひとえに、主からの「罪の赦し」ゆえです。

そうであれば、わたしたちの兄弟もまた同じく神の「罪の赦し」の恵みの内にあることは明らかです。わたしたちの罪を赦してくださった主イエスへの感謝の内に兄弟の罪をゆるすことは、わたしたちの主への感謝ゆえ、すなわち「信仰」ゆえです。その「信仰」の内に、聖霊によって「神の国」の恵みと力は宿されています。

「神の国」を「からし種」にたとえられた主イエスが、今日、「からし種一粒ほどの信仰」と言われる時、仮に、「信仰」の事実が、余りにも小さな「からし種」のように人の目には見えないとしても、実は、その「信仰」には、偉大な「神の国」の恵みと力とが宿されていることを、主はわたしたちに想い起こさせてくださいます。その時、わたしたちにとって「信仰」とはいかなる事実、なのでしょうか。

「信仰」とは、「インマヌエル、主イエスがこのわたしとともにいてくださる」という神の事実に、頷かせていただくことです。それはそのまま、このわたしを通して、主ご自身が聖霊によって働かれることを認めさせていただくことでもあります。

それゆえ、「信仰」は目には見えなくとも、「神の国」の大きな力を宿しています。「神の国」の主は、信仰の事実・「インマヌエルのキリスト」ご自身だからです。

この「信仰」において、わたしたちは兄弟の罪をどこまでもゆるすことへと導かれます。「からし種」ほどの小さな「信仰」であっても、「信仰」において聖霊が働かれるからです。その時、「聖霊」の内には、わたしたちと兄弟の罪の一切を自らに負い、わたしたちと兄弟の罪を赦し、わたしたちと兄弟を聖霊によって新たにしてくださる、十字架とご復活の主キリストご自身が、活きて働いておられます

兄弟の罪をどこまでもゆるすという最善の業であっても、それが、わたしたちとともにいてくださる主イエスの働き、「信仰」においてわたしたちに働いてくださる「聖霊」の御業であれば、わたしたちが誇るべきものは、わたしたちにおいて聖霊によって働かれる主以外にはありません。わたしたちは「命じられたことをみな果たしたら」、主に心からの感謝をもって、次のように申し上げるだけです。

「わたしどもは、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。