司祭の言葉 8/17

年間第20主日 ルカ12:49-53

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスがエルサレムに向かわれる最後の旅に伴わせていただいています。今日の福音は、ガリラヤを発ってヨルダン川沿いにエルサレムを目指して南下する旅も、すでに半ば近くに差し掛かろうとする頃のことです。

主イエスは、これまでにも弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることを、くり返しお語りになって来られました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22、さらに9:44)

先の主日に、主イエスが弟子たちに勧告された「目を覚ましていなさい」とのおことばをお聞かせいただきました。さらに主は、今日の福音のみことばに続けて、「時を見分ける目」を持つようにとわたしたちに厳しくお求めになられます。そのような中で、今日のルカによる福音は、主の次のおことばを伝えていました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

続けて主イエスは、次のようにも仰せでした。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」主の実に厳しいおことばは、この後さらに続きます。

この主イエスのおことばを、どのように聞かせていただけばよいのでしょうか。

ここで「火」といわれるのは、旧約以来「神の裁き」を意味します。罪なるものを焼き尽くす「神の裁きの火」です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」神の御子・罪のない主イエスは、それゆえ「罪を裁くことがおできになる唯一の主」として、天の父なる神から地のわたしたちに遣わされました。

なぜ、父なる神は、罪人であるわたしたちに御子キリストを「地上に火を投じるために」すなわち「裁き主」として遣わされたのでしょうか。かつてソドムやゴモラの人々のようにわたしたちを、罪ゆえに神の怒りの火によって焼き尽くすためでしょうか。

主イエスは、「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰せでした。主のこのおことばは、後のゲッセマネの園での主の祈りのおことばを思い起こさせます。そこで主は、次のように祈られました。

「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「この杯」とは、先の「神の裁きの火」と同じく、「神の裁きの杯」です。罪に対する神の激しい憤りです。当然それは、罪人であるわたしたちが飲み干すべきものです。しかし、本来罪人であるわたしたちが飲み干すべき神の裁きの「杯」を、驚くべきことに父なる神は、わたしたち罪人に代って御子キリストに飲み干すことを求められたと、ゲッセマネで主は神のみ旨を明らかにされました。

事実、主イエスは、「神の怒りの杯」を飲み干すために十字架におつきになられます。

今日の福音で、御子キリストは、父なる神のみ旨をそのまま主ご自身のご決意として、お語りになっておられたのでした。主は仰せでした。

「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

罪なきゆえに罪人を裁くことがおできになる唯一の裁き主イエス・キリスト。主は罪の裁きの一切を、罪人であるわたしたちに代って裁き主であるご自身に求めてくださる。十字架において。今日の『ヘブライ人への手紙』が証している通りです。

「イエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

神の裁きがわたしたちの救いとなる。しかしそれは、「神の怒りの火」をご自身に受け、「神の怒りの杯」を飲み干される主イエスの十字架無しには成就しません。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 (2025年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。