司祭の言葉 8/10

年間第19主日 ルカ12:32-48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「腰に帯びをしめ、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

主イエスが、弟子たちとともにエルサレムを目指して上られる旅も、すでに半ば近くになります。主は弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることへと心を向けるようにと、すでにくり返し求めて来られました。今日も、主は弟子たちに仰せです。

「目を覚ましていなさい。」

しもべが目を覚まして、主人の帰りを待つ。常識的には、それは、しもべが主人を迎えて、直ぐに主人の足を洗い、主人のために食卓を整え、給仕するためでしょう。しかし、驚くべき事にその逆であると、主イエスは、次のように続けておられました。

「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

これこそ、わたしたちがまったく予期しなかった主イエスのおことばではないでしょうか。しかし、わたしたちは知っています。「その時が来る」と、主は、事実、このおことば通りにしてくださる。それが、「主の最後の晩餐」そしてミサです。

「その時」、主イエスはしもべであるわたしたちに、大切な客人をもてなす時のように、「帯を締めて」わたしたち一人ひとりの足をご自身で洗ってくださいます。

その後、主イエスはわたしたちを食事の席に着かせ(ルカ22:19,20)、

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯もおなじようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

「その時」、主イエスはわたしたちに、パンとブドウ酒の相(すがた)で、ご自身の「御からだと御血」、すなわちご自身のいのちをお与えくださいます。そして、このことは、ミサの度にわたしたちのためにくり返されます。世の終わりまで。

「目を覚ましていなさい。」

それは、主イエスが「その時」、わたしたちのために成し遂げてくださる一切のことを、わたしたちが決して見逃さすことのないためです。

「目を覚ましていなさい。」このおことばは、さらに、わたしたちに、「主の晩餐」に続くゲッセマネの園での主イエスのお姿をも想い起こさせるのではないでしょうか。「その時」、主は弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられた後、次のように仰せでした。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マルコ14:32-34)

「主と共に、目を覚ましている。」それは、主イエスとともに祈らせていただくためです。ほかでもないわたしたちの救いのために、夜を徹して祈られる主ご自身の祈りに、わたしたちを招いてくださるためです。「その時」、主は「地面にひれ伏し」「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と、次のように祈られます。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

この後、時を置かずに、主イエスは父なる神の「御心」に従い、わたしたち罪人に代って、神の怒りの「杯」を飲み干されます。それが主の十字架です。

「主の時」が近づいています。それは、わたしたちにとっては「救いの時」です。しかし、主イエスとっては、「十字架におつきになられる時」であることを、わたしたちは、忘れてはなりません。時は近い。「目を覚ましていなさい」とお命じになられる主はわたしたちに、次のようにはっきりと約束しておられました。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン

司祭の言葉 8/6

主の変容 ルカ9:28b-36

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

ルカによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」(9:10-17)の後、主は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)と弟子たちに告げられたおことばを伝えた後、続けて、今日の「主の変容」を伝えています。

このように語ることによって、ルカによる福音は、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、続く主の十字架の死と復活の告示、さらに「主の変容」、この三つの出来事が、主が神の御子キリスト、神ご自身であられることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示してくれています。

主イエスの「山上の変容」。ルカによる福音は、その日、「イエスは、ペトロ、ヨハネおよびヤコブを連れて、祈るために高い山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」(9:28-30)と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」「雲の中からの声」すなわち「父なる神の声」(9:34、35)を聞いたとルカは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、天の御父とともに御子キリストは、ペトロたちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活される方が、実は父なる神の御子キリスト、神ご自身であられることを、御子ご自身の光輝く父なる神のお姿への変容および「神ご自身の声」を以て、予めはっきりとお示しになられました。

ところで、マタイやマルコは、モーセとエリヤの二人が「イエスと語りあっていた」内容を伝えていませんが、ルカによる福音は次のように教えてくれています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(9:31)

「最期」と訳された言葉は「過越」(エクソドス)という字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越」つまり主の十字架と復活のことであったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「主の過越」つまり「主ご自身の十字架と復活」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、ご自身の「山上の変容」の前および後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を繰り返して弟子たちに予告しておられたのです(ルカ9:22、9:44)。

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架におつきになられる。「主イエスの山上の変容」と「主の過越・主の十字架と復活の予告」が相俟って、ここに驚くべき神の救いの秘義が明らかにされました。

「主の変容」は、ルカによる福音では、直前に語られた「パンの奇跡」の物語によって、主イエスの「過越の食卓」つまり「神の国の食卓」とも結びつけられています。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちとともにエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、主ご自身との「最後の晩餐」すなわち「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれはわたしたちにとって、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、じつは「キリストのからだと血」であることが、ミサの度に主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。