司祭の言葉 8/31

年間第22主日 ルカ14:1,7-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

今日の福音でこのように仰せになられる直前に、主イエスはエルサレム入城を間近に控えて、神の都でのご自身の苦難と死を、次のように予告しておられました。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」

続けて主イエスはご自身を十字架につけるエルサレムのために深く嘆かれました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

エルサレムは、神の都として建てられました。それは、わたしたちが神を正しく礼拝することができるように、神がご自身の「聖名」をそこに置かれるためです。そうであれば、神の都エルサレムで、主なる神がわたしたちに求められるのはただ一つ。神を神とさせていただくこと。神を畏れ、神のみ前に謙遜であることです。

ただしそれは、偏に「神のみことばに聞くこと」によってのみ与えられる恵みです。

しかしエルサレムは、過去にもくり返し罪を犯して来ました。彼らは「神のことば」に耳を傾けないばかりか、彼らに「神のことば」を携えて遣わされた「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」してさえ来ました。

主イエスは、ご自身のエルサレム入城を控えて、エルサレムが再び、しかも決定的な仕方で、この罪をくり返すことになることをすでに知っておられます。しかもこの度は、人となられた「神のことば」である主ご自身に対して。

主イエスは、エルサレムが「神のことば」である神の御子を十字架にさえつけることになるという、その信じ難い罪ゆえに、エルサレムのために深く嘆かれたのです。

その主イエスのみ前での、にわかには信じ難いような人々の振舞いを、今日のルカによる福音は伝えていました。主がファリサイ派のある議員の家での食事に招待された時のことでした。人々は、主が招待されていることなど忘れ果てたかのように、「上席を選ぼう」と互いに争いあっていました。それをご覧になられた主は「婚宴に招かれた客のたとえ」の後、次のように仰せになられました。

「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれているかもしれない。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。」

これに続けて仰せになられたのが、冒頭に引用した主イエスのおことばです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

主イエスはエルサレムの罪を深く嘆かれました。それは、「神のことばを聞かぬ」罪です。ただしそれは非常に具体的に、「神のことばを携えた預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」罪です。さらにそれは、「受肉した神のことば」である主を、十字架につけることに極まる罪です。

ここに極めて大切なことがあります。「神のことば」に対しては、「聞く」か「聞かない」かというわたしたちの心の持ち様ではなく、神のみ前に、「受肉した神のことば主イエス・キリスト」を「神なる主」として受け入れるか、その主を十字架につけて葬り去るか、のどちらかの選択しか、わたしたちにはないという現実です。

神のことばを拒む。それは、「神のことば」である主イエスを十字架につけることに極まる罪です。それは、ひとえに傲慢の罪です。「神のことば」の教師を自認していたファリサイ人たちのように、神の遣わされた「受肉した神のことば」主イエス・キリストを貶しめ、自分を高く上げようとする罪です。「みことばなる神」に対する実に愚か極まる姿です。ただしそれは果たして他人ごとでしょうか。

しかし、そのようなエルサレムの人々の前で、やがて主イエスが、そして主だけが、神とエルサレムの人々によって、高く上げられる日が確かに来ます。十字架の上で。主イエスのエルサレム入城の時が近づいています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/24

年間第21主日 ルカ13:22-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かっておられた。」すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と、主イエスに問いかけた人がいました。主は、この問いに応えて弟子たちを含めた一同に仰せになられました。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

今日の福音の主イエスご自身のおことばは、罪ゆえに焦点を失っていたわたしたちの目を、「狭い戸口」である主に焦点を合わせるようにと導いてくれます。

ただし、主イエスはどこへの「狭い戸口」なのでしょうか。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」との問いを受けて、主イエスが続けて語られた「たとえ」において、「救われる」と言うことを、主ご自身が「神の国に入る」、あるいは「神の国で宴会の席に着く」と、言いかえておられます。

そうであれば、主イエスは「神の国」への「狭い戸口」であることが明らかです。

ルカによる福音では、今日のみことばに先立ち、主イエスはエルサレム入城に備えて、「ご自身の時」が近づいていることを弟子たちにお告げになられた上で、「目を覚ましていなさい」と仰せになっておられました。

それは、エルサレムで主イエスが成し遂げてくださる一切、すなわち主の十字架とご復活「目を覚まして」見届けるためです。そこにわたしたちの救いがあり、そこにのみ「神の国」へのわたしたちの唯一の「狭い戸口」が開かれてあるからです。

「狭い戸口」。実にそれは、十字架に死に、復活された主イエスご自身です。

見逃し得ないことに、マタイ・マルコ・ルカの三福音書は一致して、主イエスがエルサレムにお入りになられる直前に、盲人の目を開かれたことを伝えています。とくにマルコは、この人の名がバルティマイであったとも伝えています。彼は、主によって目を開いていただいた後、「なお道を進まれるイエスにしたがった」と伝えられています。バルティマイは主によって開かれた目で、エルサレムでの主の十字架とご復活を確かに見届けたに違いありません。

ただし、主イエスがエルサレムにお入りになられる前に、主に目を開いていただかなければならないのは、バルティマイだけではなく、わたしたちすべてでもあるはずです。バルティマイのようにわたしたち一人ひとりも、エルサレムで、主がわたしたちのために成し遂げてくださる救いのみ業の一切、すなわち主の十字架と復活を、この目ではっきり見届けさせていただく必要があるからです。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」 

わたしたちは、自らの知恵や力で、「神の国」に入ろうとしても、入ることはできません。罪ゆえに閉ざされた目に、「神の国」の「戸口」主イエスは見えません。まず罪によって閉ざされた目を、主ご自身によって開いていただく他ありません。

主イエスによって目を開いていただくとは、主によって罪を赦していただくことです。罪ゆえに閉ざされた目には、主の御姿が見えません。しかし、主によって罪赦された目には、閉ざされていたわたしたちの目を、手ずから開いてくださった「神の国の主」キリスト・十字架とご復活の主の御姿が鮮やかです。この主こそ、「神に国」に入る唯一の「戸口」・「神の国への狭い戸口」です。主において「神の国」が来ているからです。

罪の赦しの中で、「神の国の狭い戸口」である主イエスの御姿がわたしたちの目にはっきりと映し出された時、同時にわたしたちは、「神の国」の戸口が、主によってわたしたちのためにすでに開かれてあることに気付くに違いありません。わたしたちはその時、主において始められている「神の国」の真実の内に、聖霊によってすでに生かされてあることを知らされます。「神の国の狭い戸口」・十字架とご復活の主ご自身が今、わたしたちとともにいてくださるからです。

「狭い戸口から入る。」罪ゆえに閉じていた目を、主イエスによって開いていただき、その開かれた目で主をはっきりと見つめさせていただいた時、わたしたちは主によってすでに「神の国の狭い戸口」の内側にあることを知る。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/17

年間第20主日 ルカ12:49-53

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスがエルサレムに向かわれる最後の旅に伴わせていただいています。今日の福音は、ガリラヤを発ってヨルダン川沿いにエルサレムを目指して南下する旅も、すでに半ば近くに差し掛かろうとする頃のことです。

主イエスは、これまでにも弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることを、くり返しお語りになって来られました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22、さらに9:44)

先の主日に、主イエスが弟子たちに勧告された「目を覚ましていなさい」とのおことばをお聞かせいただきました。さらに主は、今日の福音のみことばに続けて、「時を見分ける目」を持つようにとわたしたちに厳しくお求めになられます。そのような中で、今日のルカによる福音は、主の次のおことばを伝えていました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

続けて主イエスは、次のようにも仰せでした。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」主の実に厳しいおことばは、この後さらに続きます。

この主イエスのおことばを、どのように聞かせていただけばよいのでしょうか。

ここで「火」といわれるのは、旧約以来「神の裁き」を意味します。罪なるものを焼き尽くす「神の裁きの火」です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」神の御子・罪のない主イエスは、それゆえ「罪を裁くことがおできになる唯一の主」として、天の父なる神から地のわたしたちに遣わされました。

なぜ、父なる神は、罪人であるわたしたちに御子キリストを「地上に火を投じるために」すなわち「裁き主」として遣わされたのでしょうか。かつてソドムやゴモラの人々のようにわたしたちを、罪ゆえに神の怒りの火によって焼き尽くすためでしょうか。

主イエスは、「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰せでした。主のこのおことばは、後のゲッセマネの園での主の祈りのおことばを思い起こさせます。そこで主は、次のように祈られました。

「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「この杯」とは、先の「神の裁きの火」と同じく、「神の裁きの杯」です。罪に対する神の激しい憤りです。当然それは、罪人であるわたしたちが飲み干すべきものです。しかし、本来罪人であるわたしたちが飲み干すべき神の裁きの「杯」を、驚くべきことに父なる神は、わたしたち罪人に代って御子キリストに飲み干すことを求められたと、ゲッセマネで主は神のみ旨を明らかにされました。

事実、主イエスは、「神の怒りの杯」を飲み干すために十字架におつきになられます。

今日の福音で、御子キリストは、父なる神のみ旨をそのまま主ご自身のご決意として、お語りになっておられたのでした。主は仰せでした。

「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

罪なきゆえに罪人を裁くことがおできになる唯一の裁き主イエス・キリスト。主は罪の裁きの一切を、罪人であるわたしたちに代って裁き主であるご自身に求めてくださる。十字架において。今日の『ヘブライ人への手紙』が証している通りです。

「イエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

神の裁きがわたしたちの救いとなる。しかしそれは、「神の怒りの火」をご自身に受け、「神の怒りの杯」を飲み干される主イエスの十字架無しには成就しません。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 (2025年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/10

年間第19主日 ルカ12:32-48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「腰に帯びをしめ、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

主イエスが、弟子たちとともにエルサレムを目指して上られる旅も、すでに半ば近くになります。主は弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることへと心を向けるようにと、すでにくり返し求めて来られました。今日も、主は弟子たちに仰せです。

「目を覚ましていなさい。」

しもべが目を覚まして、主人の帰りを待つ。常識的には、それは、しもべが主人を迎えて、直ぐに主人の足を洗い、主人のために食卓を整え、給仕するためでしょう。しかし、驚くべき事にその逆であると、主イエスは、次のように続けておられました。

「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

これこそ、わたしたちがまったく予期しなかった主イエスのおことばではないでしょうか。しかし、わたしたちは知っています。「その時が来る」と、主は、事実、このおことば通りにしてくださる。それが、「主の最後の晩餐」そしてミサです。

「その時」、主イエスはしもべであるわたしたちに、大切な客人をもてなす時のように、「帯を締めて」わたしたち一人ひとりの足をご自身で洗ってくださいます。

その後、主イエスはわたしたちを食事の席に着かせ(ルカ22:19,20)、

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯もおなじようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

「その時」、主イエスはわたしたちに、パンとブドウ酒の相(すがた)で、ご自身の「御からだと御血」、すなわちご自身のいのちをお与えくださいます。そして、このことは、ミサの度にわたしたちのためにくり返されます。世の終わりまで。

「目を覚ましていなさい。」

それは、主イエスが「その時」、わたしたちのために成し遂げてくださる一切のことを、わたしたちが決して見逃さすことのないためです。

「目を覚ましていなさい。」このおことばは、さらに、わたしたちに、「主の晩餐」に続くゲッセマネの園での主イエスのお姿をも想い起こさせるのではないでしょうか。「その時」、主は弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられた後、次のように仰せでした。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マルコ14:32-34)

「主と共に、目を覚ましている。」それは、主イエスとともに祈らせていただくためです。ほかでもないわたしたちの救いのために、夜を徹して祈られる主ご自身の祈りに、わたしたちを招いてくださるためです。「その時」、主は「地面にひれ伏し」「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と、次のように祈られます。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

この後、時を置かずに、主イエスは父なる神の「御心」に従い、わたしたち罪人に代って、神の怒りの「杯」を飲み干されます。それが主の十字架です。

「主の時」が近づいています。それは、わたしたちにとっては「救いの時」です。しかし、主イエスとっては、「十字架におつきになられる時」であることを、わたしたちは、忘れてはなりません。時は近い。「目を覚ましていなさい」とお命じになられる主はわたしたちに、次のようにはっきりと約束しておられました。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン

司祭の言葉 8/6

主の変容 ルカ9:28b-36

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

ルカによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」(9:10-17)の後、主は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)と弟子たちに告げられたおことばを伝えた後、続けて、今日の「主の変容」を伝えています。

このように語ることによって、ルカによる福音は、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、続く主の十字架の死と復活の告示、さらに「主の変容」、この三つの出来事が、主が神の御子キリスト、神ご自身であられることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示してくれています。

主イエスの「山上の変容」。ルカによる福音は、その日、「イエスは、ペトロ、ヨハネおよびヤコブを連れて、祈るために高い山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」(9:28-30)と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」「雲の中からの声」すなわち「父なる神の声」(9:34、35)を聞いたとルカは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、天の御父とともに御子キリストは、ペトロたちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活される方が、実は父なる神の御子キリスト、神ご自身であられることを、御子ご自身の光輝く父なる神のお姿への変容および「神ご自身の声」を以て、予めはっきりとお示しになられました。

ところで、マタイやマルコは、モーセとエリヤの二人が「イエスと語りあっていた」内容を伝えていませんが、ルカによる福音は次のように教えてくれています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(9:31)

「最期」と訳された言葉は「過越」(エクソドス)という字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越」つまり主の十字架と復活のことであったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「主の過越」つまり「主ご自身の十字架と復活」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、ご自身の「山上の変容」の前および後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を繰り返して弟子たちに予告しておられたのです(ルカ9:22、9:44)。

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架におつきになられる。「主イエスの山上の変容」と「主の過越・主の十字架と復活の予告」が相俟って、ここに驚くべき神の救いの秘義が明らかにされました。

「主の変容」は、ルカによる福音では、直前に語られた「パンの奇跡」の物語によって、主イエスの「過越の食卓」つまり「神の国の食卓」とも結びつけられています。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちとともにエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、主ご自身との「最後の晩餐」すなわち「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれはわたしたちにとって、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、じつは「キリストのからだと血」であることが、ミサの度に主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。