司祭の言葉 8/3

年間第18主日 ルカ12:13-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日に、主イエスから主ご自身の祈りである「主の祈り」をいただきました。その際主は、「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」と仰せでした。「主の祈り」は、「聖霊」を求め、聖霊に導かれて祈る祈りです。使徒パウロは、「祈りと聖霊」について、次のように教えていました(ローマ8:26,27)。

「『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、『霊』の思いが何であるかを知っておられます。『霊』は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

神のみ旨を知り、わたしたちの弱さも知る「聖霊」は、わたしたちの内に働いて「どう祈るべきかを知らない」わたしたちを、「言葉に表せないうめきを以て」「神の御心に従って執り成してくださる。」このように「聖霊」はわたしたちに、神に真に祈り求めるべき事は何かを教えてくださいます。ただし、それは何なのでしょうか。

それは、「神の国」に他なりません。事実、「主の祈り」において、わたしたちが「聖霊」によって最初に導かれる祈りこそ、「神の国」を求める祈りでした。すなわち、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」

実はルカは今日の福音に続けて、マタイによる福音同様、主イエスが弟子たちに「主の祈り」をお与えくださった時、次のように仰せでした(マタイ6:31-33)。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

「ただ、神の国を求めなさい。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

主イエスは弟子たちに、聖霊に導かれて「神の国」を求める「主の祈り」をお与えになられた後、今日のルカの福音のように、「神の国」そのものを、多くの「たとえ」を用いて語り示し続けて行かれます。

主イエスの「たとえ」。それは「神の国のたとえ」と呼ばれます。しかし、主の「神の国のたとえ」には仏教のお経が、「浄土」の荘厳と「浄土の主」阿弥陀仏の姿を克明に描くようには、「神の国」の様子も、「神の国の主」のお姿も語られることがありません。なぜでしょうか。

その必要が無いからです。「神の国の主」キリストご自身が、今ここで、福音とご聖体において、わたしたちに直接お語りになっておられるからです。そして「神の国の主」キリストがいますところに、「神の国」はすでに始まっています。「神の国のたとえ」で主イエスがお示しになられるのは、わたしたちのただ中に始められた主ご自身におけるこの驚くべき「神の国」の事実と「神の国」の力です。

今日の「愚かな金持ちのたとえ」が示すように、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われる「神の国の主」キリストのみ前に、したがって「神の国」の真実と現実の内に、主イエスを迎えたわたしたちはすでに立っているのです。

主イエスは仰せでした。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」なぜなら「わたしたちの命はキリストと共にある」からです。第2朗読の『コロサイへの教会への手紙』で使徒パウロは次のように語っていました。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

わたしたちは、すでに「神の国の主」キリストをお迎えした「時」の内にあります。これは、真に喜び、かつ畏れるべきことです。天地創造以来、人はこの「時」を満たされる唯一の方であるキリストを切に待ち望んできました。その時、その方の許にあってのみ、人は「神の国」に新しく生まれるからです。今、「神の国のたとえ」の示す真実の前に主イエスがわたしたちに求めておられることはただ一つです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/26

年間第17主日 ルカ11:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスはわたしたちに、主ご自身の祈りである「主の祈り」をお授けになり、わたしたちを主ととともに祈る光栄へとお招きくださいました。使徒パウロは、「祈り」について、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、聖霊自らが、言葉に表せないgうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8:26)と教えています。

そうであれば、主イエスからいただいた「主の祈り」を祈ること、それは「うめきをもってわたしたちを神に執り成してくださる聖霊」を求めさせていただくことではないでしょうか。

「主の祈り」は、古来、とりわけミサの中で大切に祈られて来ました。しかも、「主の祈り」は『感謝の典礼』の中心の『奉献文(聖変化)』の直後、「ご聖体拝領」に極まるキリストとの『交わりの儀』の冒頭に祈られてきました。明らかに「主の祈り」はご聖体におけるキリストのご現存のもとで、「ご聖体の拝領」を目指して祈られています

「ご聖体」を拝領することは、ご復活のキリストのいのち、すなわち生ける主イエスご自身をわたしたちのいのちとしていただくことです。それは、活ける主のいのちである「聖霊」を、わたしたちが受けることに他なりません。この「聖霊」を求める祈りとして、主のみことばにしたがって、ミサの中で「主の祈り」は祈られて来ました。

「主イエスのみことばにしたがって、聖霊を求めさせていただく」と申しました。「主の祈り」をわたしたちにお授けくださった主はそのことをはっきりと仰せです。

主イエスは、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と仰せの上で、「主の祈り」を祈るわたしたちに次のように明確に約束されました。

「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」

ルカによる福音が伝えるように、「弟子の一人」が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った時には、彼は単純に主から「祈り」の模範を求めていたのかもしれません。しかし、これに応えて、主イエスが、わたしたちに「主の祈り」をお与えくださったことは、主ご自身にとって特別なことです。それは、主がわたしたちに天の父なる神に「聖霊」を求めることをお許しくださったことだからです。ただしそれは、父なる神と御子キリストご自身にとって、さらにわたしたちにとって、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

それは、父なる神にとっては、御子キリストご自身、つまり御子のいのちをわたしたちにお与えくださることをよしとされた、ということです。「聖霊」とは、御父との活ける交わりにある御子キリストのいのちだからです。事実、そして確かに、御父は、「主の祈り」を祈るわたしたちに、御子キリストのいのちをくださいます。十字架においてただ一度。しかし、ミサのご聖体拝領の度ごとに。

ミサのご聖体拝領を目指して祈られる「主の祈り」。主イエスからいただいた「主の祈り」で、わたしたちは第一に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と、「神の国」を祈ります。続けて、「わたしたちに必要な糧」を、そして最後に、「わたしたちの罪の赦し」「罪の誘惑からの護り」を祈ります。

ここには、わたしたちが主イエスとともに祈る光栄に生かされるために大切なことの一切が祈られています。しかもそのすべてが、すでに主の内に完全に成就しています。その一切を、わたしたち自身の恵みとしてくださる方こそ「聖霊」です。

その「聖霊」を求めさせていただいて良いそれが「主の祈り」です。その「祈り」に応えて、主イエスは「聖霊」「わたしたちが目で見、よく見て、手で触れる」ことができる(ヨハネの手紙1)「ご聖体」においてお与えくださいます。それがミサです

マタイによる福音は、主イエスの「主の祈り」を、ご自身の福音宣教の始めの「山上の説教」の中心に伝えています。その際、主は弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と仰せの上で、「主の祈り」をお与えくださっておられます

「主の祈り」とは、「聖霊」を求める「祈り」です。それは、「わたしたちに必要なものすべてをご存知の父なる神」に、「父の霊」である「聖霊のご支配」に、わたしたちを委ねさせていただく祈りです。そのわたしたちに、父なる神は、聖霊において御子キリストご自身をお授けくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/20

年間第16週 ルカ10:38-42

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日のルカによる福音は、エルサレムまであと一息のベタニヤの町に住むラザロとマルタとマリアの家を、エルサレムへの最後の旅の途上に主イエスがお訪ねになられた時のことを、伝えていました。

実はヨハネによる福音によれば、主イエスはこの時とは別に二度、ベタニヤに彼らを訪ねておられます。主が、死んだラザロを甦らせてくださった時(ヨハネ11)と、エルサレム入城直前に、マリアから香油を注がれた時です(ヨハネ12)。

さて、今日の福音で、主イエスがラザロとマルタとマリアの家をお訪ねになられた時のことです。姉のマルタは、主を家に迎え入れ、「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた。」しかしその間、妹の「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」と福音は伝えていました。

姉のマルタは、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるように仰ってください」と主イエスに愚痴を言いました。その時、主は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」、とマルタを諭されたと福音は伝えています。

「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」妹のマリアを、主イエスは深くいとおしんでおられたと思います。しかし、姉のマルタに、「マルタ、マルタ」と心を込めて二度も繰り返して彼女の名前をお呼びになっておられる主のマルタに対する思いも、わたしたちには痛いほどに伝わってきます。主は、明らかに二人を同じようにともに深く愛しておられたに違いないと思います。

ただしこの時は、主イエスはマリアがご自身のみ前に跪いてご自身のことばに耳を澄まして聞き入っていることをことのほかお喜びになられたと思います。神のみことばに聞く。それは、神のみことばであるキリストのみ前に跪くことです。

律法、すなわち神のことばの教師を自認しつつ、結果的には、受肉された神のみことばであるキリストを十字架につけることになる律法学者たちには、どうしても理解できない真実を、マリアは身体で知っています。主イエスのみ前に心からの懺悔と感謝をもって跪く他に、神のみことばに聞く術はないという真実を。その上、神のみことばであるキリストに聞くことは、実は主のいのちをいただくことなのだという、主にとっても、わたしたちにとっても掛け替えのない厳粛な真実をも。

「必要なことはただ一つだけである。」それは、主イエスのみ前に跪き、主のみことばに聞き、みことばの内に主のいのちをいただくことです。「マリアはそれを選んだ。彼女からそれを取り上げてはならない」、と主は仰せになりました。

ここでわたしたちは、ルカによる福音が、ベタニヤのマリアが主イエスのみことばに聞く姿を、主がご自身の祈りである「主の祈り」を弟子たちにお与えになられる直前の出来事として伝えていることを、見逃してはならないと思います。

「祈り」こそ、パウロが「聖霊のうめき」(ローマ8:26)と語る、わたしたちが神からいただく「ことば」です。主イエスが「ご自身の祈り」をお与えくださるのは、わたしたちに祈りを教えてくださったという以上に、「聖霊のうめき」としての「ことば」、すなわち主ご自身をわたしたちにお与えくださるということです。主のみ前に跪くマリアの姿に、主から「主の祈り」、すなわち、みことばなる主ご自身のいのちである「聖霊」をいただくわたしたちのあるべき姿を、教えられるのではないでしょうか。

先にヨハネによれば、主イエスは、今日の福音とは別に二度マルタとマリアを訪れておられ、その最初は彼らの兄弟ラザロが死んだ時のことであったと申しました。

この時、主イエスの訪問を受けながらも、マリアは悲しみゆえに立ちあがって主をお迎えすることができませんでした。その主を家に迎え入れ、「わたしは復活であり、いのちである。このことを信じるか」との主の問いに、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、信仰の告白を以てお応えしたのは、実はマルタです。このマルタの信仰に応えて、主はラザロに再び命を与えて、彼をマルタとマリアにお返しになられました。

姉のマルタも主イエスに聞き続けた人であったことは間違いありません。ただし、人には、それぞれ逃してはならない時があります。妹のマリアは、今日の福音の時には、すべてを措いて主に聞かねばならなかったのです。主はマリアにその時を保証し、祝福を以てみことばであるご自身を彼女にお与えになられたのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/13

年間第15主日
ルカ10:25-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日のルカによる福音は、ある律法の専門家が、「イエスを試そうとして」次のように主イエスに尋ねたと伝えています。「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」

ミサにお集まりの皆さんは、すでにこの問いの答えをご存知です。永遠のいのち」とは、死に打ち勝ったいのち」であり死を越えて神の国にわたしたちを生まれさせ・生かすいのち」です。それは、死に打ち勝って復活された「キリストのいのち」以外にはあり得ません。したがって、「永遠のいのちを受け継ぐ」、それは、「キリストのいのち、すなわち聖霊をいただく」ことです。福音とご聖体において。今、皆さんが信仰によって与っているミサこそ、その答えです。

ところで、今日の律法の専門家とは、ファリサイ派と同様に、当時「律法、つまり神のことば」の教師を自認していた人々です。その彼に主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されました。

ここで「律法には何と書いてあるか」との主イエスの第一の問いと、「あなたはそれをどう読んでいるか」との第二の問いはまったく異なったレベルの問いです。日本語にも「身読(我が身を以って読む)」という表現がありますが、「あなたは律法・神のみことばをどう読んでいるか」との第二の問いは、その人の信仰、すなわち主なる神に対する生き方を問う問いだからです。つまり、「あなたは、神のみことばを真にあなたを活かす命としていただいているか」という問いです。

この律法学者は、主イエスの第一の問いには正確に応えています。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と、(律法に書いて)あります。」主は、第一の問いに正しく答えた律法学者に、「正しい答えだ」と仰せになられた上で、「それを実行しなさい」。つまり、「神のみことばをあなたの命としていただき、そのみことばに生かされて行きなさい」、「そうすれば命が得られる」、と。

「あなたは神のみことばから真に命をいただいているか」と主イエスは律法学者に問われました。神のみことばに聞くとは、律法学者たちがするように「神のことば」を上手に解釈し適用することではなく、神からわたしを生かす命をいただくことです。しかもこの時、彼は、みことばなる神・主イエスご自身の御前に立っているのです。この方にお聞きすればよいのです。この主から命をいただけばよいのです。

それにもかかわらず、主なる神キリストのみ前に「自分を正当化しようとして『では、わたしの隣人とはだれですか』」と問い返した律法学者に応えて、主イエスがお語りになられたのが、いわゆる「良いサマリア人のたとえ」です。たとえの内容は明快です。その上で主は彼に、さて、あなたはこの三人(祭司、レビ人、サマリア人)の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。

主イエスは彼に、さらに主のみ前に立つ「追いはぎに襲われ、半殺しにされていた」他でも無いわたしたちすべてに、誰が真の「隣人」になってくれるのか、誰が命を与えてくれるのか、と問い掛けておられるのです。もちろん、それは、キリストです。主イエスだけが、「追いはぎに襲われて半殺しになっているこのわたし」の「良いサマリア人」、さらには「良いサマリア人」に優って、わたしの真の「隣人」となり、わたしにご自身のいのちをさえ与えて、わたしを生かしてくださる方だからです。

「神のみことばにお聞きすることは、神から命をいただくこと」、と申しました。事実、受肉されたみことばである主イエスにとって、みことばをお語りになられることと、ご自身のいのちを裂いてわたしたちにお与えくださることは、同じ一つのことです。そうであればわたしたちが主にお聞きするみことば、主からいただく命とは、みことばなる主ご自身です。それは、ミサにおいて明らかです。福音に聞くこととご聖体をいただくことは、明らかに二つで一つのことだからです。

今、倒れて命尽きんとしていたこのわたしにご自身のいのちを与え、生き返らせてくださるためにわたしの「隣人」となってくださった「永遠のいのちキリスト」を、福音とご聖体においてわたしの命としていただく。そのようにみことばに聞かせていただき、みことばなる主イエスをわたしの命としていただきます。それがミサです。

その時、主イエスのいのちである「聖霊」がわたしの内に働き、わたしを用いて主のみ業を行ってくださいます。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。わたしの内に生きて働かれる主が、次には、このわたしを、助けの必要な人の「隣人」とさせてくださいます。主のいのちである聖霊をいただき、「行って、あなたも同じように行いなさい。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 7/6

年間第14週 ルカ10:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

『「神の国は、あなたがたに近づいた」と言いなさい。』

主イエスの弟子たちは、確信と喜びをもって大胆に人々に告げてよいのです。「神の国は、あなたがたに近づいた(今、来ている・完了形)神の国の主ご自身が弟子たちと共に訪問してくださっておられる(現存)からです。ルカは次のように伝えます。

「主は、(すでにお選びになっておられた十二使徒たちの)他に72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に(ご自身の顔の前に)遣わされた。」

実は、主イエスはわたしたちを派遣されるその「すべての町や村」を、すでにご自身で訪問しておられました。主は、わたしたちを、見ず知らずの地や、ご自身が会ったこともない人々の許に遣わされるのではありません。主の宣教の始め、十二弟子をお選びになられる直前のこととして、マタイは次のように伝えていました。

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」(マタイ9:35) 続けてマタイは、その時の主イエスのご様子をも伝えていました。「また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)

さらに、「そこで、(主は)弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイ9:37,38)との主イエスのみことばに続けて、マタイは、主が弟子たちの内からペトロたち十二人を特にお選びになり使徒として任命された、と伝えていました。

したがって、主イエスが使徒たちに託された使命は明快です。主は使徒たちを、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」「群衆」のもとに遣わし、「群衆」を神に(神のみ顔の前に)「収穫する」「働き手」とすること。使徒たちを「群衆」の魂の牧者とすることです。ただ、主は、それをどのようにしてなさるのか。

マタイは、主イエスの十二使徒の任命に際して大切なことを伝えます。「イエスは十二弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能(ex-ousia,ご自身を割く)をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった。」(マタイ10:1)

「汚れた霊を追い出す」ことができるのは「聖い霊」、復活のキリストご自身である「聖霊」だけです。主が弟子たちに「悪霊に対する権能」を授けられたことは、主が彼らにご自身そのものである「聖霊」つまりご自身を割いてお与えになられたということです。だからこそ弟子たちを通して働かれる「聖霊」は、これまで主がご自身でなさったように、彼らを用いて「あらゆる病気や患いを癒す」といわれるのです。

マタイは、主イエスは福音の宣教の始めに十二使徒たちに「行って、『天の国、すなわち神の国は、近づいた』と宣べ伝えなさい」(マタイ10:7)と命じられたと伝えていました。ルカによる福音では、主はこの同じことばをエルサレムへの最期の旅の途上、十二使徒の「他の72人」を任命された時にもくり返しておられました。72人とは聖書ではイスラエルの主だった者たちすべてを象徴する数であり、わたしたちを含めた主の弟子たちすべて、すなわち教会全体を暗示する数です(出エジプト24:1)。

したがって、主イエスの使徒たちに加えられた教会のわたしたち一人ひとりにも、主は使徒たちと同じ「聖霊」を主ご自身を割いてお与えくださり、歴史を貫き、わたしたち教会を通して主ご自身が救いのみ業を行って行かれるということです。

日本での福音宣教は困難であるという言葉を度々聞きます。しかし福音の宣教が容易であった時代や地域など世界のどこにもありません。「行きなさい。わたしはあなたを遣わす」と仰せになられる十字架のキリストは、「それは、狼の群れに小羊を送りこむようなものだ」と、宣教が命がけであることを、誰よりもよくご存知です。

ただし、落胆する理由は何もありません。主イエスはご自身が、かつて訪ねられたすべての町や村にわたしたちを遣わされるのです。そしてわたしたちと共に、主ご自身が、再び人々を訪問されるのです。この主ご自身が、わたしたちに語らしめた福音の一切の実りを、「聖霊」において、人々に必ず豊かに結ばせてくださいます。

後に、宣教に遣わされた72人が「主よ、お名前を使うと悪霊さえもわたしたちに屈服しました」と「喜んで」主イエスに報告した時、主は「むしろあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:17-20)と仰せでした。主の福音宣教にお仕えすることは、「わたしたちの名が天に書き記される(主がわたしたちをご自身に深く刻み込まれた・完了形)ことであることを、わたしたちは忘れてはなりません。 

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。